アガペーと隣人愛:神の愛とは、イデア界の差異共振性のことだろう。

アガペーと隣人愛:神の愛とは、イデア界の差異共振性のことだろう。


テーマ:ポスト・キリスト教


先に、キリスト教の愛は自我愛ではないかと言ったが、ふと、神の愛に基づく隣人愛ならば、それは、自我愛ではないと思ったので、気になり、検索したら、そのようなことを述べているページがあった。

★引用開始
キリスト教は博愛、とくに「隣人愛」を説いている。

聖書にある愛にもいろいろあるが、「隣人愛」の愛とは「アガペー」であり、「相手をその人として大切にする」という意味がある。

隣人を愛し、敵を愛す。
愛そうとしても、愛せない人はいる。
親や友人と同じように、誰をも愛し大切にすることなどできない。
だが、【アガペー】とは相手を無理にでも親や友人のように愛そうと思うのではなく、相手を自分と同じように大切にするということだ。》

★引用終了
心の開発−キリスト教

http://www.merry-shaka.com/repo/2007/02/post_15.html


《「隣人愛」の愛とは「アガペー」であり、「相手をその人として大切にする」》と述べているが、これは、正に、差異共振性に近いだろう。これまで、アガペーとしての隣人愛を考えたことがなかったが、それならば、キリスト教の神の愛の思想は理解できるのであり、それを自我愛であるとする、これまでの私の見解は誤っていたことになる。

 そうならば、どうして、そのような誤りになったのだろうか。聖書に当たってみたい。

 次のような文面があった。

★引用開始
《「最も大事な掟」
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出で、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにはない。」
(マルコによる福音書第12章28節〜31節)

★引用終了
http://www.seirei.ac.jp/history-material-pavilion/gogenoshie.html
聖隷の語源とキリストの教え

★引用開始
キリスト教の大事な本義のひとつはというと、「隣人愛」なんじゃないかと僕は想ってるんです。
「隣人」と言ったって、これが身内や仲間という「となりの人」なら、別にこれはあたり前のことですね。そんなことだったら、特にとり立てて言うほどのことじゃぁない。
「あ〜たのとなり人(びと)を愛しなさい」とわざわざ言うのですから、かなりこれは「わざわざ」です。んでもってその究極が、「あ〜たの敵を愛しなさい」ですね。

敵を愛せるのならば、それはすでに「敵」ではあり得ないようなもんだと思うんですが (^o^)、とにかくそういうことも言っちゃってるわけです、イエス・キリストは。
つまり「となりの人」というのは、身内や仲間じゃぁない、「われわれ」の外の者たち、ということなんですね。「われわれ」の外にとなり合ってる者たちをも、愛しましょうや。それがイエス・キリストが説いたことなんです。》
★引用終了
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/11044722.html
光るナス

★引用開始
《・キリスト教アガペーの愛
アガペーの愛は、新約聖書に固有の愛であり、神より出ずる愛、というのが大前提。
「○○の故に」愛する愛ではなく、全く自発的な、無条件の愛。
理由も利害もともなわない愛であり、根拠さえ持たない愛。
相手に価値があるとかないとか、そういうことには無関係な愛。

ある人が、誰か他の人をそのまま受け入れ、その人のために自分自身を差し出すこと。放棄にほかならない愛。
相手をそのまま受け入れ、認め、それによって相手の中に新しい価値を創造する愛。
自己愛を倍加するのではなく、自己愛を埋め合わせ溶かす愛であり、自我を強化するのではなく自我から解き放つ愛。

ラテン語のカリタス(caritas)は、このギリシア語・アガペーの訳語とされて、キリスト教的「愛」を指すようになり、さらに、「愛」にもとづく「慈善」の意をもつようになりました。
英語の「charity」の語源ですね。これが「隣人愛」なわけです。》
★引用終了
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/16876893.html
光るナス

以上の引用から、私の今日考えたことは、どうやら、正しく、これまで、誤っていたようだ。隣人とは他者なのである。他者を神が「愛する」ように「愛せよ」が、「隣人愛」なのであろう。
 そうすると、それは、PS理論的倫理/宗教とも通じるだろう。しかしながら、PS理論的倫理/宗教とは、きわめて、理知的なのである。他者の有り様をよく洞察して、理知的覚醒をも促すのである。
 思うに、アガペーとは、神の能動性である。能動的エネルギーである。積極的エネルギーである。これを、他者に見て、他者の能動的エネルギーを賦活するような能動的観念(スピノザ)をもつことが、PS理論的倫理・宗教になるのかもしれない。
 そのように考えると、キリスト教スピノザ哲学の融合としてPS理論的倫理/宗教が考えられるのだろう。もっとも、PS理論は、大乗仏教を根拠にしているのである。先にも述べたが、PS理論は、万教帰一を説くものである。例えば、神=空・無である。結局、内在的超越的宗教として、万教帰一になるだろう。