連続的志向性によって、閉塞された潜在する差異共振性について再考:

連続的志向性によって、閉塞された潜在する差異共振性について再考:悪魔になった天使の再天使化


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


先に、ドゥルーズ並びにハイデガーの思想は、いわば、連続化された現象的メディア・ポイントを核にしていると考えた。

即ち、潜在する差異共振性が、連続化されると考えた。連続的志向性という否定性に染まった(染色された)ということである。そして、連続的差異共振性になったと考えた。そして、それが、ポスト・モダン思想の核であると考えた。

この考えには、誤りはないと思う。しかしながら、連続化された差異共振性については、まだ説明が足りないのである。

即ち、連続化されても、差異共振性は差異共振性であり、本来、不連続的なものなのである。私の観念では、特異性である(ドゥルーズのいう特異性は、似非特異性であると考えられる)。

だから、ここにおいて、齟齬・撞着があるのである。即ち、連続性と不連続性である。

この矛盾が、極言すれば、理論的問題の大核心と言えよう。

自我意識は、連続的であるために、差異共振性を連続化してしまうのである。

しかし、本来、不連続であるから、それは、矛盾したままである。特異性は特異性で残るのである。

だから、ポスト・モダンの連続化された差異においても、不連続な差異共振性が潜在しているはずであると考えられるのである。

妙な言い方になるが、連続化された不連続な差異共振性とは、どういう作用をもつのだろうか。

これは、既に述べたように、アイロニカルな没入になると考えられる。また、これは、超越的エネルギーの反動態ではないだろうか。

結局、発生論的に見るならば、メディア・ポイントにおいて、超越エネルギーが現象エネルギーに変換するが、これは端的に、能動的エネルギーである。しかし、同時に、差異共振性を潜在させているのである。

これはどういうことなのだろうか。結局、先に述べたことになるが、メディア・ポイントの即非性があるので、現象メディア・ポイントにおいても、超越メディア・ポイントが存するのである。

この、いわば、現象的超越メディア・ポイントが、差異共振性を潜在させていると言えよう。

そして、これを連続化させることは、反動性であるから、超越エネルギーは反動態となると考えられる。

そして、これが、端的に、非合理なエネルギー、狂気・暴力であろう。私が近代的自我が狂気であると述べたのも、このためである。

内省を欠くために、近代人は、狂人となったのである。

近代的教育は、狂育である。近代的自我狂人を育むのだから。

さて、この連続化あるいは反動化した差異共振性=超越エネルギーが、諸問題の根源にあるわけだが、比喩的に言えば、天使が悪魔となっているのである。

だから、再天使化が必要なのである。

そして、このために、プラトニック・シナジー理論が役立つのである。

再天使化によって、合理性は合理性として真に役立つようになる。物質科学も、差異共振性の真理=美に役立つようになる。

結局、まとめると、メディア・ポイント(内的身体)には、悪魔と化した天使(超越性)が内在するのであり、これを再天使化(再超越化)することで、モダンの連続・内在性の牢獄から解放されるのである。再天使化としてのトランス・モダンでもある。

そう、ポスト・モダンの救済としてのトランス・モダンであるが、それは、トランス・ポスト・モダンとも言えよう。