人類の行き詰まり?:男性的価値観と国家主義:超越性とトランス・ヒ

人類の行き詰まり?:男性的価値観と国家主義:超越性とトランス・ヒューマン


テーマ:人間とは何哉?:民衆-叡知-経済


サウジアラビア等が、イランの核開発をにらんで、原子力の開発するというようなニュースがあったり、憂鬱なイラク自爆テロのニュースがあったり、六カ国協議での取り決めの履行を北朝鮮が遅らせている等があったり、人類は窮地というか、行き詰まりに達したようである。

男性的価値観は、攻撃・暴力的価値観であり、それが、現代世界を形成してきたのである。

他方、平和への努力もあった。民主主義は、一つの方策である。

しかし、ブッシュ/ネオコンのような攻撃・暴力的民主主義もある。

とまれ、現代世界は、男性的価値観が支配しているのである。

つまり、暴力主義であるということである。

いわゆる、近代的合理主義は、暴力主義である。

しかしながら、問題を明晰にするために、精緻にするために、用語を的確にしよう。

物質的合理、数量的合理は、合理であり、問題はないのである。

私が問題にするのは、それが、自我と結びついて、暴力となることである。

だから、近代的合理性ではなくて、近代的自我が悪である。

ただし、近代的自我は、近代的合理性を主義にして、暴力化するのである。

だから、近代的自我ないし自我の変容が、現代の男性的暴力主義を無くすために必要である。

自我から自己への変換である。

ここで、教育が問題となるのであるが、明確な自己形成のための教育がないのである。

教養というものは、本来、自己形成のためであったが、とっくに崩壊してしまった。

私は、近代的自我を悪者にしたが、それ以上に、唯物論が悪なのである。

物質的合理性は近代文化であるし、それは、それで正当なものである。しかし、唯物論は、悪なのである。

近代自然科学は、唯物科学になってしまっている。物質というものは、現象への有力な一つの視点に過ぎない。唯物論になったとき、精神、意識、認識が物質的機械論化されるのである。

自我と唯物論の結合、唯物的自我、これが、悪魔なのであり、暴力的世界を形成しているのである。

日本においては、とりわけ、唯物的自我が問題ではあるが、世界においては、単に唯物的自我が問題だけではない。

私は、これまで、ユダヤキリスト教が問題であると言っている。あるいは、一神教が問題であると言っている。

つまり、自我形成と一神教とが結びついているからである。確かに、発生的には、一神教は意味があったが、現代では、反動的なのである。

先にも述べたが、発生プロセス論的に、精神・社会事象を見る必要があるのである。この点では、相対論的である。

宗教は、発生プロセス論から相対化されるのである。超越神も相対化されるのである。(PS理論では、超越性の発現が超越神である。)

思うに、一神教が、連続化して、唯物的自我と結びつき、現代の男性的攻撃・暴力的世界が生じていると考えられる。

だから、この世界を変容するには、切断が必要なのである。

トランス・一神教である。あるいは、超越性の参入である。

これは、差異共振シナジー化をもたらすのであり、戦争・暴力ではなく、平和・協力をもたらすのである。

イエス・キリストは、聖霊について述べているが、聖霊こそ、超越性を意味すると言えよう。

世界観の第二のコペルニクス的転回が必要である。

トランス・人類への転換である。