1)民主主義とは何か 2)対話の衰退
1)民主主義の問題
2)対話と断定
1)について、今は、簡単に触れるが、民主主義とは、根本的な問題を抱えていると思う。なぜなら、個々の人間は質的に異なるが、民主主義は量的制度なので、その質の差異を評価できないという根本の問題点がある。
質的に優れたものが、指導者になるべきであるが、大衆の多くは、その質を理解できず、悪らつな、狡猾な政治家を評価してしまう。
国家の指導者となるものは、質的にすぐれた教育、それも、多面的な教育を受けなくてはならない。文科系と理科系の分化を超えた文理融合教育を受けなくてはならない。とりわけ、精神の教育を受けなくてはならない。
思うに、現今の民主主義は、誰の利益になるのだろうか。
基本的には、金融資本家の利益になるだろう。
アメリカを見てわかるように、少数の金融資本家の利益になるのである。
結局、質と量の問題である。そして、民主主義は、この妥協的政治・社会制度と言えるが、量的なものに傾斜しているのである。
哲学的に言えば、同一性、連続的同一性を中心にしているのが問題なのである。差異としての同一性を問題にしていないのである。
だから、理論的に言えば、連続主義から差異主義への転換が必要になると言えよう。
近代主義とは、連続主義であった。そして、トランス・モダンは、差異主義、超越的差異主義となるだろう。
ポスト・モダンは、モダンからトランス・モダンへの過渡期の現象であったと言えよう。
そして、トランス・モダンとは、伝統的価値観の新生となるのである。
国家主義の衰退があるだろう。新しい普遍主義が生まれるのである。EUは、近代以前のカトリック的中世ヨーロッパに螺旋的に回帰するように見える。
日本は、東アジアないしアジア的文化圏に回帰するのだろう。
そう、トランス・モダンでは、精神が中心点となるだろう。
今は、ここで留める。
2)についてだが、対話能力の衰えがある。決めつけることが、なにか大勢となっている。PS理論は、i*(-i)⇒+1であり、「主体」と「他者」との対話*を基本としているのである。
対話能力の衰えとは、共振・共鳴・共感力の衰えである。これは、連続的同一性暴力の増加を意味する。
これも、近代主義の末期を意味すると言えよう。トランス・モダンへの転化の必要が切迫している。
後で、検討したい。