PS理論の超越的経験性について:メディア・ポイントの二つの即非性と

PS理論の超越的経験性について:メディア・ポイントの二つの即非性と超越的理性


テーマ:プラトニック・シナジー理論


不連続的差異論の感動、そして、プラトニック・シナジー理論のもつ深化、ここには、新しい経験性があるのである。新現象学(新現象論)と言ってもいい。

この新しい経験の様態について、これまでおおまかには示唆したが、ここで、より精緻に述べてみたい。

端的に言えば、ここには、超越的エネルギーの不連続化による切断(不連続的差異論)とそこから発生する差異共振化がある。不連続的共振化と言ってもいいだろう。

では、超越的エネルギーの不連続的共振化は、経験的にどういうものなのだろうか。

それ以前は、超越的エネルギーは、連続化しているのであり、連続的同一性自我と結びつき、混濁しているのである。不純な様態にあるのである。

つまり、超越的差異的エネルギーが、連続化の影響を被っているのであり、それは、反動・暴力化していると言えよう。

だから、精神世界的な思想が暴力化するのは、十分に考えられることなのである。極めて危険である。

この超越的経験性の問題は、メディア・ポイントmepoの問題である。

そして、これは、経験的には、内的身体論ないし心的身体論の問題であると考えられる。

そう、連続性ないし内在的超越論のままでだと、mepoが連続性のままである。(これが実数軸上の問題であるとは言えない。Kaisetsu氏が述べたように、無理数の問題があるからである。)

とまれ、連続的メディア・ポイントは、超越性を内在化したままと言えよう。ここで、デリダ脱構築論について言うと、その現前批判とは、連続論ないし内在論の批判と言っていいだろう。現前とは、連続的内在性のことだろう。

さて、この連続性が切断されて、超越的エネルギーが本来的な不連続的共振性を帯びるとは、経験的にどういうことなのか。

これは、メディア・ポイントがいわば清浄・純粋化されることだろう。

つまり、超越性と現象性との即非性が発現することを意味すると考えられる。

つまり、現象性と超越性との分化と同時に交流を意味するだろう。

分化は、現象に対する知性、物質的知性の純化を意味するだろうし、交流は物質的現象に対して、精神性(倫理を含む)を付与する意味合いをもつだろう。

つまり、前者において、近代科学・技術を肯定するのであり、後者において、トランス・モダン的創造性を発揮すると言えるだろう。

簡単に言えば、近代科学・技術を包摂したトランス・モダン的創造的志向性が発現するということだろう。

つまり、経験・物質的理性と超越的理性との即非的結合があるだろう。

カントは後者を実践理性としか捉えられなかったと言えよう。

ここで、注意すべき点を述べれば、即非性とは少なくとも二つの様態を見ないといけないだろう。

即ち、虚数即非性である。i*(-i)である。

それに対して、虚数と実数との即非性である。

両者、メディア・ポイントの即非性と言えよう。

だから、メディア・ポイントの二つの即非性と言える。

以上で本件の考察を終えたこととしよう。

さて、ついでに、この超越的エネルギーの即非的共振性による変換について再考しよう。(p.s. 多元変換については、別稿で再考したい。)

現象界をいちおう物質界と見よう。

それは、同一性の連続化した世界である。これを唯物的知性は捉える。近代科学がそういうものである。

しかし、超越的理性は、現象的理性が同一性ないし連続的同一性の理性であることを知っている差異的理性である。(今は、理性と知性を区別しないで使用している。後で、区別を提起してみたい。)

つまり、超越的理性とは、同一性と同一性との間に差異があることを知っている理性である。さらに、この差異が、連続的差異ではなくて、不連続的差異であること、またさらには、それが超越的差異であること、いっそうさらには、それが、共振的即非差異であることを認識しているのである。

人間で言うと、近代的自我的同一性は、「私」が「あなた」とは異なることをを認識している。これは差異ではなくて、同一性である。

同一性が並存しているのである。

そして、この同一性(差異的同一性)が共振することを知らない。「私」が「あなた」でありうることを知らないのである。

超越的理性は、この同一性の共振が知っているのである。

ここには、超越的エネルギーがあるのである。メディア・ポイントを介した超越的エネルギーが作用して、「私」と「あなた」を共振化させるのである。

アジア文化的には、「気」が作用していると言うだろう。

キリスト教的には、「愛」が作用していると言うのではないだろうか。私見では、これは、聖霊と呼べるのである。

この超越的エネルギーは、人間においては、不可視でありながらも、感じられるものであろう。絵画では、気韻と呼ぶものがそうである。参照:横山大観の画。
http://www.tctv.ne.jp/members/taikan/

問題は、物質においてである。

これは、これまで述べてきたように、量子力学に関わる問題である。超微細な領域の問題である。

端的に、量子論で扱う対象は、超越的差異=イデアないし超越的エネルギーであると考えられる。

しかしながら、唯物論の枠組みで考える限り、それは、粒子と波動の相補性や非局所的長距離相関等の認識が発生させると言えよう。

つまり、量子論は、物質的同一性と物質的同一性の間にある超越的差異を探求しているのであるが、唯物科学の枠組みで、それを量子、素粒子という物質として把捉しているに過ぎないと考えられる。

ということで、問題は、超越的差異と物質的同一性の関係である。

現象界が成立するには、マクロにおける物質的同一性の支配ないし優位性がなければならないだろう。

つまり、近代科学が検証を要求する反復性がなければならないということである。

例えば、酸素と水素を点火して爆発的に結合させたら、常に、水が発生しなくてはならないという規則性がなくてはならないのである。

これは、正に、物質的同一性として説明できるだろう。2H2+ O2→2H20である。

問題は、この物質的同一性の間にある超微細・超ミクロな「差異」をいかに科学化するかである。(p.s. 超越的科学、イデア論的科学)

量子論は、当然ながら、量子ないし素粒子として扱ってきたのであるが、壁にぶつかっているのである。

PS理論は、これまで述べてきたように、それを超越的差異・イデアないし超越的エネルギーと考えているのである。

そう、超越的差異は、物質的には、量子・素粒子として観測されるのである。しかしながら、経験的には、「気」としても認識されると言える。

有り体に言えば、電磁波として観測されるのである。

しかしながら、PS理論では、電磁波は、超越的エネルギーの発現であると考えるのである。

つまり、電磁波は超越的エネルギーの発現であり、実体的には、いわば、超電磁波が存していると考えられるだろう。

つまり、メディア・ポイントで、超越的エネルギー=超電磁波が電磁波へと変換されていると考えられるのである。

だから、メディア・ポイントは、いわば、質的トランス(変圧器)である。

このメディア・ポイントの様相は実に微妙であろう。

つまり、メディア・ポイントと現象界との様相の微妙・霊妙性である。

これは、物質科学では把握できないだろう。

なぜなら、物質的現象とは、メディア・ポイントを介しての物質的同一性の発現様態であるからであり、物質科学は、その先験的事象を扱えないからである。

問題は、メディア・ポイントの様相性である。

そう、メディア・ポイントは、物質的には、電磁波を発出していると考えられる。

しかしながら、ここには、微妙な様相性があるだろう。

端的に言えば、二重構造である。超越性と現象性との二重構造である。

つまり、電磁波は、メディア・ポイントの現象様相であり、それとは別に、メディア・ポイントの超越様相があると考えられる。

この超越様相が超越的差異性=イデアないし超越的エネルギーであろう。

言わば、超電磁波である。光で言えば、超光である。

そう、これは実に興味深い領域であり、様相である。

現象は実は、二重性をもっているということになるからである。

光は超光を帯びていると言えるのである。

古代人が霊と呼んだものは、これを指していると考えられるのである。例えば、太陽霊と古代人が呼んだものは、超太陽ないし超光のことであろう。超越的太陽、イデア的太陽である。プラトンの善のイデアや諸宗教の光はこれを指していると考えられる。

留意すべき点は、この超越性と現象性とは混じらず、しかも、並存していることである。超越性と現象性との共立である。(p.s 交差するが、混合しない。)

だから、唯物論に立つ限り、超越性の確認は不可能なのである。

しかしながら、ある特異点において、超越性の強度が増大するときがあるのではないだろうか。

そのときは、いわば、奇跡が起きるのではないだろうか。新約聖書や仏典等に書かれた奇跡とは、そのような事象の記録ではないだろうか。

メディア・ポイントの通常では、規則的な物質的同一性が発現する。

しかしながら、メディア・ポイントの特異性が活性化するときが考えられるだろう。そのとき、奇跡が起こるのだろう。

端的に、強大な超越的エネルギーが発動するとき、メディア・ポイントは賦活されて、特異な現象が発現すると考えられるのである。

私見では、夜明けや日没の時は、小さな特異点ではないかと思う。

満月や新月の時もそうではないだろうか。

推測であるが、なんらかの超越的差異の共振シナジー化の発動が、強大な超越的エネルギーの発動に通じているのではないだろうか。

この問題は難しいので、別稿で検討することにしよう。

さて、簡単に整理すると、メディア・ポイントを介して、現象界は実は、超越界と並存していることになった。

だから、極言すれば、現象界は超越界に浸透されているということになる。しかし、それは、不連続的な超微細な浸透であり、マクロ的な視覚や知覚では認識できないと言えよう。

近代的物質科学は、これを否定しているのである。

つまり、現象界を物質的同一性の側面でしか理解せず、超越的差異を看過しているのである。

これは、現象界のまったく半面的な理解でしかない。つまり、現象界の不正確な理解なのである。

排他・排外的に、超越界を締め出しているのである。

そして、この結果が現代世界の狂気・暴力・破壊的な様相である。

超越的精神、超越的理性を取り戻すことで、世界は正常化するだろう。

超越的エネルギーの排他的締め出しが、反動的に狂気・暴力・破壊を生んでいるのである。

地球人類は、進化か滅亡の分岐点に達したと言えよう。

そう、聖書で書かれている聖霊降臨とは、超越的エネルギーの降臨のことだろう。

また、イスラム教の預言であるが、それも、預言者ムハンマドに参入した超越的エネルギーのしからしめる業と考えられよう。宗教は、内容よりも、その超越的参入に意味があるだろう。