現代日本政治カルト状況と日本的近代主義による同一性=全体主義:日

現代日本政治カルト状況と日本的近代主義による同一性=全体主義:日本的差異=霊性の復活へ向けて


テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義


toxandoria氏の激烈な現代政治のカルト批判
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514/p1
を読むと、日本の病巣がはっきり浮かんでくる。そして、それについては私なりにさんざん述べてきたので、ここでは、詳論しない。
 今は、簡単に触れるだけだが、現代日本の政治・社会的カルト状況は、実は、近代主義の帰結なのである。近代主義的同一性は、結局、連続化して、ただ、唯一の同一性へと帰結するのである。そう、オーウェルの描いたビッグ・ブラザーである。ただし、日本の場合のビッグ・ブラザーは、一人の総統が中心というよりは、同一性共同体が中心である。これは、ある意味で、村落共同体的である。
 結局、問題は、近代主義は、封建主義を打破して形成されたものであるが、この否定が、実は、同一性による二項対立という差別をもたらしたのである。封建主義はあきらかに差別主義であるが、それを否定した近代主義も差別主義なのである。
 そう、ここには民主主義の問題があると言えよう。「人間は、平等にequal創られた」とアメリカの独立宣言にある。同一性とは、実は、差異の否定・排除・隠蔽であり、この点で明らかに差別主義なのである。同一性が優位であり、差異が劣位である。(そう、高野連魔女狩りは、この同一性主義によると言えよう。)
 図式化すれば、優位/劣位=同一性/差異である。つまり、平等思想を徹底すると、同一性主義となり、差異が否定されるのである。というか、根本的に、平等思想は、差異を否定するので、全体主義が帰結されるのである。これは、ヘーゲル哲学に顕現していることである。(これらは、既述済みである。)
 民主主義は、確かに、封建主義を打倒する重要な観念であるが、しかし、やはり、限界があるのである。つまり、民主主義は、同一性主義=全体主義へと展開する必然性をもつのである。
 だから、以前から述べているが、差異的民主主義、超越的民主主義が必要なのである。平等ではなくて、差異が基礎となるのである。あるいは、特異性と言ってもいい。
 現代日本全体主義魔女狩り原理主義的潮流を見ると、これは、確かに、民主主義の帰結と言えるだろう。あるいは、近代的民主主義の帰結である。
 また、それだけでなく、日本における父権主義がこれに関係しているのである。父権主義は、封建主義であるが、これが、色濃く現代日本に残っているのである。欧米ないし西欧の民主主義は、個的民主主義である(ルネサンスは、個の活性化であり、私見では、プロテスタンティズムはこの個を取り入れているのである)。しかるに、日本の場合は、父権的民主主義である。これが、なおさら、民主主義を同一性主義=全体主義化させていると考えられるのである。
 この点をもう少し詳しく見よう。同一性主義は、差異を否定する。そして、父権主義は、父権的二項対立性をもち、その点で、同一性主義と結びつきうるのである。
 端的に言うならば、父権主義と近代的自我は同形である。父権主義は、母権という差異を否定して、父権的自我中心主義である。つまり、母権の否定・排除・隠蔽があるのであり、ここに父権的同一性二項対立が成立するのであるから、近代的自我と同形なのである。
 ということで、ルネサンスを経由していない日本は、近代化において、近代的自我と父権主義とを結びつけたと考えられるのである。だから、同一性主義=全体主義が必然的に帰結する傾向にあると言えよう。そして、それが、現代日本なのである。
 欧米の近代化とは、ルネサンスを経ているので、個=差異が基盤になっているのである。そして、ここから近代主義が発生するのである。つまり、差異と同一性との緊張関係が欧米には本来あるのである。
 イギリス人は、経験的個人主義であるから、全体主義を忌み嫌うのである。因みに、ブレアの失敗の一つの要因はここにもあるだろう。
 そう、差異と同一性との緊張関係が、いわゆるポスト・モダン思想を生んだと考えられるのである。つまり、欧米の基盤にある差異の発動なのである。流行としてのポスト・モダンは終ったが、しかしながら、後期デリダに見られるように、差異主義は生きていると見るべきである。
 この観点から見ると、現代日本の政治・社会的カルト状況は、欧米にある個=差異の視点の欠落にあるということになるだろう。日本では、日本なりの個の文化があったが、それが、近代化において、排除されてきたと思うのである。
 今は、簡単に言うだけだが、個=差異と霊性=精神性は、結びついているということである。欧米は、宗教性を脱色化したとは言え、精神のベースにキリスト教は今でもあるのである。欧州の都市には、教会がはっきり目に付くのであり、それが、共同体精神の焦点を構成していると思えるのである。
 これはそれほど突飛な考えではなく、ルネサンスにおける宗教性を見ればすぐわかることである。今、日本に来ているダ・ヴィンチの受胎告知を見ればいい。
 日本は、明治維新においては、排仏毀釈を行い、仏教の影響力を排除して、国家神道によって国民の霊性=精神性を収斂させたと言えよう。私見では、この時代の日本人には、個=霊性があったのである。
 しかし、太平洋戦争の敗戦によって、アメリカに占領されて、日本国憲法が生まれて、立憲民主政の国として再出発することになった。しかし、このとき、日本人は、戦前を否定して、日本人固有の個=霊性を喪失したのである。というか、それを否定・排除して、近代的合理主義を肯定したのである。ここに、現代日本の政治・社会カルト状況の始点があると考えられるのである。
 そして、戦後においては、残っている父権主義と近代主義が融合して、同一性癒着的政治体質が形成されたと考えれるのである。整理すると、日本的個=霊性の喪失、近代主義、父権主義、これらが結びついて、同一性主義=全体主義=カルト主義が形成されたのである。
 そう、差異は霊性である。超越性である。日本が復活するには、差異=霊性=超越性の復活が必要なのである。
 後で、霊的世界について、述べてみたい。
 
p.s. 論理の流れが乱れているが、論旨は明快だと思う。後で、より整合的にまとめたい。

参照:

◆右と左の対立、イスラム原理主義キリスト教右派の対立、一党独裁共産主義軍事独裁政権の対立・・・これらは同一構造の鏡像対立である。だから、米ソの対立が、一方的なソ連邦の崩壊によって意味を失った時、米国はソ連邦に替わる強大な敵を必要とした。イスラム原理主義である。
◆米国がイスラム原理主義との抗争で疲弊する間隙を突いてEUが通貨の維持・上昇と言う手法でパワーを示しだした。⇒参照:ブリュッセルとワシントンの対立
◆新しい対立鏡像の出現である。
◆原初的な「対立鏡像」は実体であり、構造主義的な認識手法から見た「現実」である。
◆シミュラクールは、この原初的な『「鏡像」の「鏡像」』である。つまり、虚像である。鏡を沢山立てることで、無制限に虚像の鏡像が乱立し始める。所謂、派生である。
◆この虚像的鏡像、派生鏡像には自主性は無い。これこそ、シンクロ である。虚像は、現実に存在する原初的(第一義的)像の移動によって移動する。表面の凹凸によって姿を変える。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=550049
『ポスト・モダンの幻影⇒対立するものの同一化現象』
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
『New Platonic Synergy Theory』
 
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■ポスト・モダンの幻影⇒対立するものの同一化現象

ポスト・モダンの幻影⇒対立するものの同一化現象
2007.05.14 Monday | author : Kaisetsu
http://blog.kaisetsu.org/?eid=550049
kaisetsu 2007-05-15 00:59:29