原知と原身体との共振と現象化の問題:差異的同一性と所有欲・言語・

原知と原身体との共振と現象化の問題:差異的同一性と所有欲・言語・近代認識とトランス・モダン


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


これまで述べてきたことを反復する形になるが、簡単に整理を兼ねて考察しよう。
 私は、iを原知、-iを原身体と見た。もっとも、iを原主体、-iを原他者と見ることもできるが、いちおうそうとして考えよう。
 原知と原身体が超越界即ち、虚数軸で、均衡している。この場合、静態と動態があるだろう。デュナミスとエネルゲイアとしよう。ここでは、後者から考えよう。
 現象化において、明らかに、主体の外部が形成される。それまで、主体は、言わば、即自的に、他者と共振していた。しかし、外部の他者が新たに出現し、主体は、新たな対応を取る。
 ここで作業仮説的に考察しよう。主体は、超越光をもっている。しかるに、現象化においては、この超越光が光に変換するのではないだろうか。主体内部の光である。
 では、外部はどうなのか。外部も基本的には、光を発出しているだろう。しかしながら、外部のメディア・ポイント(以下、MP)も存するだろうから。外部も超越光を秘めているのではないだろうか。即ち、主体内部には、主体MPにおける超越光があり、外部には、外部MPにおける超越光があると考えて、思考実験を続けよう。
 とまれ、現象界においては、光が本来的であり、超越光とは、存在するが、それは、MPで、ミクロ的に揺らいでいるのではないだろうか。マクロ的には、無視できるのである。
 言い換えると、それは、花は花である。菖蒲は菖蒲であるという同一性として現象が生じるだろう。これを否定したら、生存はできない。もっとも、近代主義者は妄想家であり、事実を捩じ曲げるのである。従軍慰安婦の強制はないと言うのである。
 そう、科学や知の原点は、このA=Aを認めるところから始まるだろう。その点では、アリストテレス論理学の功績は大である。そう、これを光の論理ないし光論理と言ってもいいだろう。
 このA=Aは連続的同一性なのであろうか。否、違うだろう。個物、個体としての菖蒲は菖蒲であるということであり、差異としての同一性であると考えられよう。つまり、本来、光論理ないし光認識は、主体と客体は連続していない。不連続的であり、距離があるのである。外部の他者として菖蒲を菖蒲として認識するのである。差異的同一性である。これは、i*(-i)⇒+1の一つの様相であろう。そして、この認識は美的認識であると思う。他者を他者として認識することは、美的認識だと思う。
 この差異的同一性を何が、連続的同一性に変容させるのであろうか。思うに、言語認識に関係するだろう。視覚において、菖蒲を認識する。紫色や黄色が美しい。美的現象である。しかし、原知は、それを、言語として認識することを欲するのである。
 そう、視覚認識とは、光認識であり、それは、原知と原身体との共振的認識である。しかし、原知は、言語認識へと展開することを欲するのである。
 そう、言語認識とは何であろうか。思うに、それは、所有欲的認識ではないのか。他者を己のものする認識ではないのか。攻撃的・獰猛な認識である。他者を否定し、己と同一性化する認識である。
 では、これは数式ではどうなるのか。やはり、i*-(-i)⇒-1であろう。言語認識とは、倒錯的ということになるだろう。もし、それだけを取りだすならば。先に述べたが、私は、自己の特異性の感覚意識と言語の一般性の矛盾に、まるで、ハムレットのように悩んだものである。とりわけ、70年代後半における、交換価値的日本語の蔓延には、奇怪異様なものを感じ、違和感を強くしたのであった。
 私にとり、言語とは、異質なものであった。音楽や自然の鑑賞の方が、しっくりしたのである。確かに、特異性から見ると、言語は、いかがわしいのである。しかし、特異性を押さえておけば、言語は、すばらしい認識コミュニケーションの手段になる。
 つまり、言語は、それだけが遊離すると、いかがわしいのである、現代日本の政治・社会がいかがわしいように。『ハムレット』のデンマークがいかがわしいように。
 つまり、言語認識は、倒錯的であり、それは、光認識の⇒+1を阻害してしまうと考えられるのである。だから、言語認識に対しては、光認識を基礎として置く必要があるのである。光認識が優位であり、言語認識は劣位である。この位階を保持する必要がある。
 この視点から、近代主義を説明することができよう。それは、光認識ではなく、言語認識を優位にしたのである。ヨハネ福音書の冒頭を「初めにロゴスありき」から「初めに言葉ありき」にしたのが、近代なのである。脳論で言えば、左脳を優位脳にし、右脳を劣位脳にしたのである。(もっとも、この二分法は問題があると思う。)
 この逆転の原因は何なのだろう。ここで、少し角度をずらすと、私は遠近法は怪しいと思っている。それは、一見、光認識風であるが、それは、実際は言語認識的ではないだろうか。
 直観で言えば、光認識は、現象をコスモスと結びつけると思うのである。個々では、差異的同一性であるが、それらが共振して、コスモスとなると思われるのである。つまり、ミクロのMPが作用して、共振化させて、コスモスを形成すると思うのである。例えば、宮崎駿の作画は、コスモス的である。また、多くの芸術家が、コスモスを直覚したのは、正しいと思うのである。
 しかるに、現象を遠近法化するのは、ミクロのMPを排除して、ただ、連続的同一性の所有欲的視覚によって図画することだと思われるのである。だから、その点で、ルネサンスは、確かに、近代の入口である。日本の美術の方が、ミクロのMPに正直であり、コスモスを表現していると思うのである。(ここで、想起するのは、D.H.ロレンスが、ルネサンスの巨匠たちの絵をけなして、エトルリアの素人臭い美術品を評価したことである。それは、つまり、エトルリア人は、ミクロのMPの視覚をもっていたからではないだろうか。p.s. ロレンスは『エトルリアの故地』で、地下墓室の壁画を見て、「触れあっている」というようなことを述べていた。この触れ合っているが、共振性を意味すると考えられよう。http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10006347976.html ) 
 では、なぜ、言語認識が優位になったのか。それは、端的に、商品経済が発達したからではないだろうか。物質経済が成長したからではないだろうか。ここでは、個体は、所有物である。他者ではない、己の所有物である。どうもこの辺に解答がありそうである。歴史的にぴったりあてはまるのである。
 言い換えると、利己主義、自我所有欲が増大したのである。これが、言語認識を優位にしたと言えよう。そして、原始、古代、中世と連綿として存在した差異共振性を否定したのである。そう、この事態は、シェイクスピア悲劇に見事に描かれている。『リア王』は、共振世界と近代世界との衝突である。
 今日は、余裕がないので、ここらで終りにするが、この連続的同一性-1=言語認識優位=遠近法=近代主義からの脱却であるが、それは、正に、フッサールが説いたように、切断的エポケーが必要である。不連続化である。倒錯した認識をさらに逆転する必要があるのである。
 しかしながら、所有欲望が強いために、他者=差異を他者=差異として認識することがこれまで困難であったのである。他者=差異を否定して、同一性化させてしまうのである。それが、ドゥルーズまで続いたのである。
 しかし、デリダは、差異と同一性の亀裂を指摘して、同一性を脱構築した。これは、第一歩であった。そして、後期デリダは、すべての差異がまったき差異であり、特異性であることを指摘して、決定不能性を中心に据えたのである。そう、ここにおいて、ポスト・ポスト・モダン=トランス・モダン哲学の第一歩が踏まれたと言えよう。
 純粋差異が出現したのである。絶対的差異が出現したのである。ある意味でこれは、原初的認識の復活であるが、しかしながら、物質的所有意識を経ているので、単純な回帰ではない。螺旋的回帰である。
 今は、簡単に示唆するだけだが、この差異認識と物質所有意識との均衡が目されなくてはならないということである。プラトンで言えば、白い馬と黒い馬のバランスである。精神的資本主義があり得るだろう。思うに、差異的創造のために、同一性的資本が投入されるようになるべきではないのだろうか。差異共振創造資本主義である。