知・天と身体・知との極性:身体と大地にあるメディア・ポイント=チ

知・天と身体・知との極性:身体と大地にあるメディア・ポイント=チャクラ


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


直前の論考は混乱してしまったので、もう一度考え直したい。
 私が思ったのは、知=天=iであり、身体=地=-iではないかということである。これを解明しようと思ったのである。
 しかし、近代的合理主義においては、身体=地=-iが否定されているのである。そう、この反動が、-(i)*-i⇒-1のロマン主義であろう。知を否定するのである。感性・感情を肯定するのである。
 私が問題にしたいことの一つはエネルギーの様態の問題である。エネルギーは、局所的には、何処に発動するのか。⇒の志向性がエネルギー様態ではないだろうか。そうすると、共振エネルギーと反動エネルギーの二種類があるだろう。いちおう、そういうことにしておこう。
 とまれ、現象化において、連続化が生じる。このとき、共振エネルギーと反動エネルギーが混濁・混淆・混同していると考えられよう。
 そう、i=天=知と-i=地=身体との極性はあるが、それが、±1の混淆様態となっているのではないだろうか。そして、ベルクソンドゥルーズの差異論は、そのようなものであった。
 結局、+1に共振エネルギーが発動しているのである。そして、これは、コスモスと共振・「連結」していると言えよう。しかしながら、連続混濁様態にあるので、これが、-1の反動エネルギー=同一性と癒着しているのである。
 だから、本来、純粋な共振エネルギーも、反動エネルギーによって支配されるのである。なぜ、後者によって、支配されるかと言うと、後者は、自惚れ・慢心・傲慢を促進するからである。宗教において、本来、純粋なものが、権力化するのは、これによると考えられる。(だから、宗教のPS理論化が必要なのである。)
 そう、PS理論によって、共振エネルギーを独立させたとき、⇒+1が完成すると言えよう。このときは、反動エネルギーはほとんど消失しているであろう。そして、また、i=天=知と-i=地=身体との極性が発現するだろう。
 では、この純粋化、超越化によって、エネルギー様態の局所性はどうなるのか。ここには、共振エネルギーが作用しているだけである。
 なぜ、こんなことを言うのかというと、私には、エネルギーは-i=地=身体に
感じられるからである。しかしながら、理論的には、メディア・ポイント(以下、Mepo)に存するはずである。
 このズレをどう説明したらいいだろうか。思うに、理論の方が正しいのである。私の直観の言語化が不十分なのであろう。
 私が感じるエネルギーは、チャクラにおいて感じるのだと思う。そして、チャクラはMepoである。ヨガによれば、七つのチャクラがあるから、七つのMepoが心身にあることになる。
 つまり、身体と知との接点としてのMepo=チャクラであり、ここでエネルギーを感じるのである。そして、チャクラは、身体の局所性をもつので、身体にエネルギーを感じるということになってしまうのだろう。これで、解明できた。
 では、これを天地に当てはめるならば、天地のMepo=「チャクラ」があるはずである。人間の場合を適用すると、地球にMepoがあることになるのではないだろうか。地球の「チャクラ」?
 しかし、天を太陽とすれば、Mepoは、惑星になるのではないだろうか。あるいは、太陽と地球で考えると、月がMepoになるのではないだろうか。
 とまれ、ここでは、最初の考え、地球にMepoがあるとして考えよう。地底にあるとしよう。
 地核とは、基底のMepo(チャクラでは、ムーラーダーラ・チャクラ)ではないだろうか。そして、山岳であるが、それは、チャクラで言えば、天頂のサハスラーラ・チャクラに相当するのではないだろうか。
 道教で、山岳に龍脈を見るが、それも、Mepoではないだろうか。とまれ、ここでは、地球・大地にエネルギーの局所であるMepoがあるということにしておこう。
 そう、こう考えると、D.H.ロレンスや古代人が言った地霊spirit of place, genius lociの意味がよくわかるようになるだろう。それは、天地の共振エネルギーのことなのである。超越エネルギーのことなのである。そう、大地にある精神エネルギーであるから、地霊と呼ぶのは適切である。
 この問題は、ここで留めたい。

p.s. どうも、余裕のないときは、思考が散漫になる。一つ述べるのを忘失していたが、それは、i=天=知と-i=地=身体との極性に、父と母を加えて、
i=天=父=知*(-i)=地=母=身体⇒+1することができるだろうということである。
 この図式から言うと、一神教は、i=天=父=知
中心的で、多神教は (-i)=地=母=身体中心的ではないのか。否、どうも違うようだ。思うに、女神教という言葉を作れば、女神教は、本来、両極性をもつ。そう、原初的+1があったと思うのである。しかしながら、一神教が生まれると、女神・母神たちは、(-i)=地=母=身体へと移されるのである。大地母神地母神の誕生である。一神教が、二項対立を生んだのであり、それは、i=天=父=知
中心主義なのである。
 だから、一神教多神教を対立させるのは、賢くないのである。それは、同形である。そう、一神教多神教は同形である。
 結局、新しい天地教が必要なのであろう。新天地教(PS 教)である。これは、一神教多神教を超越している。そう、新しい神の誕生である。新女神と言ってもいいのかもしれない。だから、新女神教である。新天照教である。新イシス教である。新マリア教である。新女媧教である。新キュベレー教である。もっとも、人格化する必要はないのかもしれない。そう、一神=多神であろう。
 では、多神教の発生の原因は何だろうか。直観では、共振において、多神化すると思われるのである。そう、共振振動数の違いと言えるのではないだろうか。ここで、クラドニのパターンを想起する。共振周波数の差異が、多神教を生むのである。共振事象は、一義的であるが、その様相・様態は多数である。