差異と同一性について再考:メディア・ポイント的共振エネルギー身体

差異と同一性について再考:メディア・ポイント的共振エネルギー身体と同一性自我所有欲望


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


これまで、現象化において、他者的差異を否定し、同一性化することを前提して考察してきた。虚数軸では、i*(-i)がポテンシャル・エネルギーとして、存している。ここでは、原主体iは、原他者-iと共振している。
 現象化において、先に、⇒±1の混合様態になると考えた。そして、これは、(+1)×(-1)=-1の自我になるものと考えられる。+1が共振エネルギーと、-1が反動エネルギーと相関している。だから、連続的現象化方程式は、i*(-i)⇒i*±(-i)=+1・(-1)=-1である。
 これはいいとして、連続的現象化における他者的差異の否定とは、端的に、どういうことなのか。例えば、知が身体を否定するとはどういうことなのか。これまで、単純に身体を否定すると言ってきただけであった。ないしは、他者を否定して同一性化するとしか言わなかった。
 しかしながら、実際考えてみれば、近代合理主義は、身体感覚を介して、同一性の観念を否定した他者に当てはめているのであり、単に身体を否定しているわけではないのである。視覚身体は否定していないのである。
 では、どんな身体を否定しているのか。他者的身体である。視覚身体は、言語的同一性に合うように、差異をそぎ落とされやすい。そう、差異的身体が否定されるのである。では、差異的身体とは何かである。それは、同一性の光に抗するものである。(ここで、同一性の光と言ったが、それでいいのか検証する必要がある。)
 おそらく、正しく言えば、言語的同一性に幽閉された視覚があるのであり、本来の差異的視覚、視覚身体が否定されているのである。
 問題は、差異的身体の否定である。差異的身体は、多種多様なエネルギー体である。不連続な多種多様な共振的エネルギー体である。一言で言うと、渦であろうか。(参照:女媧、チャクラ)それとも、迷宮であろうか。(先取りすれば、母権文化は、これを表現しているのである。ケルトの渦巻紋様がそういうものと考えられる。)
 差異的身体(他者的身体)は、実は、メディア・ポイントを含んだ身体のことと言えよう。おそらく、純粋な原身体-i自体は、やはり、同一性志向性をもつと思えるのである。おそらく、-i(原身体)*-(i)⇒-1の数式が成立すると考えられるのである。
 だから、まとめると、言語的同一性主体が否定する身体は、身体自体というよりは、メディア・ポイント的身体であると言えよう。
 つまり、現象化において、メディア・ポイント(以下、MP)において、差異共振的エネルギーないし多種多様な共振エネルギーが発現しているのである。
 しかるに、連続性へと傾斜する言語的知性は、それを否定して、外界に対して、連続的同一性を形成するのである。
 この連続的言語的知性であるが、それは、自我所有欲望に駆動されているのである。仏教でいう色である。この同一性所有欲望のため、MPの差異共振的多種多様なエネルギーは否定・排除・隠蔽されるのである。ここで、実例をあげれば、子どもの描く絵は、斬新であり、新鮮である。それは、子どもが、大人のもつ同一性自我所有欲望が未発達で、MPの差異共振的多種多様なエネルギーに即して表現するからと考えられる。当然ながら、同一性欲望を獲得した大人は、もう子どもには、戻れない。しかしながら、PS理論によって、MPのエネルギーを復活させることはできるのである。しかしながら、もはや、子どもの様態ではなく、より洗練された子どもの様態である。ラクダ⇒獅子⇒子どもという人生の三変容を説いたニーチェを想起する。
 本件の結論は既述済のように思えるが、もう少し展開させてみよう。即ち、生体・人体・生命体の問題である。生きている身体とは何なのであろうか。これは、原知と原身体とのメディア共振によって生命体が生起すると考えられる。この知・身体メディア共振的生命体であるが、このとき、物質的生命体はどういうものなのであろうか。
 先ず、知-身体メディア共振エネルギーが、生命体の根源的エネルギーである。これは、いわば、精神的エネルギーないし気的エネルギーである。
 この進展として、知性・精神や物質的身体の形成を考えることができよう。即ち、知-身体メディア共振エネルギー(以下、メディア共振エネルギー)は、一方では、思惟と生み、他方では、延長的身体を生むのである。簡単に言えば、心と身体である。(これは、デカルトスピノザ哲学の問題であるが、記述済なので、ここでは述べない。)
 私は、メディア共振エネルギーと物質的身体との関係を考察したいのである。メディア共振エネルギーは、それ自身は、差異であるが、同時に、同一性(物質)を構成する。即ち、差異ー同一性ー差異ー同一性ー・・・の差異的同一性体(簡略化して、差同配列体とでも呼ぼう)を構成すると考えられる。
 つまり、メディア共振エネルギー(さらに簡略化して、メディア・エネルギーないしメネルゲイアないしメネルギーとしよう)は、差同配列体を構成するのであるが、その差同配列体の同一性の部分が物質的身体となると考えられる。差異がメネルギーの部分である。だから、物質・メネルギー・物質・メネルギー・物質・・・・が差同配列体であり、物質・物質・物質・・・・が物質的身体となる。
 しかしながら、物質的生命科学においても、エネルギーは当然扱われているのであるから、物質・エネルギー・物質・エネルギー・物質・・・・が物質的身体の構成であると言えるだろう。
 そう、エネルギーが物質的生命科学イデア生命科学との接点となるだろう。イデア生命科学あるいは、PS理論的生命科学は、エネルギーをメディア共振エネルギーと見て、そこに、本体としての超越(イデア)的エネルギーを見ているからである。
 今日、西洋医学東洋医学の統合として、東西医学が探求されているが、PS理論は、正に、東西医学の原理を提供できると言えよう。「気」、「プラーナ」というものは、メディア共振エネルギーに包摂することができるのであり、また、物質エネルギーはそれの現象化エネルギーとして考えることができるのである。また、ツボというものは、メネルギーの局所として説明できるだろう。
 現代、ストレス社会であるが、ストレスとは、メネルギーを阻害するものと言えよう。心への阻害とは、正に、メディア共振エネルギーの阻害であり、結果、物質的エネルギーを阻害して、物質的身体を阻害するのである。
 結局、メディア共振エネルギーの阻害が不健康を作ると言えよう。これを、正常化する必要があるのである。思うに、やはり、瞑想や禅がいいのかもしれない。「無」になるとは、同一性へのエネルギー消費を止めることであり、メディア共振エネルギーを自己へと呼び込むことだと思われる。