霊的平和へ向けて:新霊性の時代:トランス・モダン・スピリチュアリ

霊的平和へ向けて:新霊性の時代:トランス・モダン・スピリチュアリティ


テーマ:新霊性new spirituality


昨日の考察から引き続き考えたいが、結局、PS理論は、差異と同一性との理事無碍のあり方を涵養する。そして、差異は、虚数的超越性は、霊性となる。
 私は、このトランス・モダン的霊性近代主義のもたらした暴力の世界を解消していくのではないかと思ったのである。暴力とは、端的に、差異の否定、同一性中心主義から発するのである。しかし、それだけでは、説明は不十分である。
 差異の否定とは、PS理論から言えば、差異共振性の否定である。即ち、他者との共振したあり方、平和的共存のあり方が否定されているのである。さらに、差異の否定は、精神的エネルギーの否定様態であり、反動様態となる。
 つまり、差異共振性の否定とは、共振エネルギーを反動様態に変えるのである。即ち、差異と他者に対する攻撃的エネルギー=暴力エネルギーに変容すると考えられるのである。
 以前述べたが、天使が悪魔になっているのである。しかし、端的に言えば、神が悪霊となっているのである。つまり、現代の諸暴力、とりわけ、戦争とは、神が悪霊となって生じているのである。つまり、人間が、神を悪霊に変えているのである。とりわけ、アメリカは神を悪霊に変えている国であり、日本は、それに憑依されているのである。
 そう、資本主義というものも、物質主義、交換価値中心である限り、神を悪霊に変えているのである。
 ここで、D.H.ロレンスが『チャタレイ卿夫人の恋人』で述べていたことを想起する。即ち、知性(これは、近代合理主義、近代主義)は、憎悪を基にしているということである。
 この知性の基盤にある憎悪(ニーチェで言えば、ルサンチマンである)とは、正に、差異共振性の否定のことである。スピノザで言えば、哀しみの感情である。
 結局、差異共振性=霊性を否定して、現代人は生きているので、憎悪に満ちて攻撃・暴力的なのである。結果は、破壊である。そう、近代主義とは、端的に、悪魔主義である。近代合理主義とは悪魔合理主義である。かつてあった霊性を否定して形成された物質的合理主義であるからである。
 しかし、近代主義が末期的になると、否定されていた差異共振性が蠢きだすのである。新霊性の目覚め・芽生えである。
 しかしながら、近代主義を形成している連続性を解体しない限り、新霊性は混濁したままであり、また、反動性を帯びると言えよう。神、宗教は、悪魔的暴力となるのである。
 ここに、不連続的差異論を包摂したプラトニック・シナジー理論PS理論の画期的な意義の一つがあるのである。即ち、連続性を切断して、差異を解放するのである。そして、それが、超越的差異共振性=新霊性であることを明らかにするのである。この新霊性が新平和の礎である。
 この新霊性においては、国家主義を超えて、戦争の犠牲者に対する倫理が発生している。いわば、永遠の法がここには、支配しているのである。
 そして、資本主義に関すると、これまでの近代的資本主義、同一性資本主義に換わって、霊的資本主義が考えられるのである。新霊性資本主義、トランス・モダン霊性資本主義である。
 民主主義も、この新霊性に基づくことになろう。新霊性民主主義である。そう、新しい神の時代、新コスモスの時代とも言えよう。
 そう、政治にいちばんこれが必要となってくるだろう。新霊性に基づく政治である。近代主義は、金儲け一辺倒で、不正義をもたらしたのである。
 価値観のパラダイム・チェンジである。可視的な価値から不可視の価値へと転換するのである。
 環境問題、温暖化問題も、結局、この新霊性に基づかなくては、解決しないだろう。何故なら、物質経済中心主義である限り、環境は破壊される方向にあるからである。新霊性に立つことによって、物質経済を乗り越えることができるのである。また、温暖化も同様である。
 また、今日の新自由主義的経済であるが、これは、アメリカのグローバリゼーションの策謀の一つであると言えよう。確かに、小さな政府や民営化はそれなりに必要なものである。また、規制緩和して、企業を活発にするというのも理解できる。
 しかしながら、物質主義経済に立つ限り、それは、悪魔主義であり、格差社会が拡大するのである。人間狼を増大させているのである。
 思うに、新霊性教育が必要である。これによって、新霊性人間が増えることになり、彼らは、霊的社会・文化のために何が必要が考え、実行するだろう。
 また、大企業が儲かるだけでなく、中小企業との共振化が図られるにようになるだろう。また、中央と地域との共振化も図られよう。
 差異共振性という新霊性が基盤となって、国家且つトランス国家共振体的相転移が発生すると言えよう。


p.s. 少し補足したい。差異を否定することから、神を悪霊(悪魔)に変えていると言ったが、この言い方では、神全体が悪霊になっている意味になってしまう。
 例えば、アメリカ人の一人が差異を否定したら、神全体が悪霊になってしまうということになってしまう。これは、あきらかに誤りである。
 ここは理論的に重要である。個にとっての差異共振性とイデア界との関係が問題になっているのである。単純に考えて、個が差異を否定したとき、差異共振性は否定されて、悪霊化する。
 問題は、個において、差異共振性とは何か、である。直観で考えよう。不連続化された差異は、共振する。それは、虚数的超越性をもつ。(実数的超越性はおいておこう。)思うに、それは、虚数的超越性と共振しているのである。イデア界的共振と呼ぼう。
 しかし、これが否定されたとき、反動エネルギーが生起する。これを悪霊と呼んだのである。しかしながら、個における差異共振エネルギー=イデア界的共振エネルギーとは、イデア界全体のエネルギー(ポテンシャル・エネルギーを含めて)ではありえないだろう。
 だから、悪霊化とは、メディアとしての差異共振性の否定と見るべきであろう。イデア界から現象化へと志向する。このとき、連続的同一性化が作用して、差異を否定する。これは、イデア界の形成するメディア・エネルギー=差異共振エネルギーを否定する形になっている。
 だから、悪霊化とは、イデア界全体の否定ではありえない。ただ、メディア・エネルギーとしての「神」の否定としての悪霊化である。エネルゲイアの悪霊化である。
 とまれ、このエネルゲイアの悪霊化とは、他者の否定につながることは言うまでもない。そう、確かに、神の否定と言っていいのであるが、この場合の否定は、排除・隠蔽である。神を否定して、神を閉ざしているのである。
 つまり、近代においては、個々において、神は閉ざされているのである。神に蓋をして、同一性=悪魔の枠に生きているのである。
 トランス・モダンは、神の復活でもある。