PS理論の経験論:同一性の志向性と差異の志向性:知識と感識の差異と

PS理論の経験論:同一性の志向性と差異の志向性:知識と感識の差異と同一性


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


風邪を引いて、咳が止まらない状態が続き、難儀であるが、本件に関する理論的考察を続けよう。
 先に、原主体性のiは、差異と同一性が合一しているものではないかと言ったが、ここでも、それを作業仮説にして考察しよう。
 では、原客体性の-iとは何だろうか。それは、当然、差異であり、他者である。同一性はないのか。以前、私は、iと-iの同等の、しかし、正反対の性質を見たことがある。そのときは、iを原知として、-iを原身体として、両者に同一性の志向性を認めたのである。つまり、i→(-i)=-1であり、- i→i=-1であると考えたのである。言い換えると、原知から原身体への同一性志向性と、原身体から原知への同一性志向性を考えてみたのである。
 このように考えるということは、原身体にもなんらかの「知」を認めることになるだろう。すると、前提からおかしくなるだろう。原知の「知」はいいが、原身体の「知」とは何か、となるだろう。思うに、それは、「感」という「知」ではないだろうか。「知」という言葉を使用するのに語弊があるならば、「識」であろう。「感」という「識」があるのである。いっしょにして、感識である。
 すると、知と感識があることになる。知識と感識と言ってもいいかもしれない。
 では、しかし、思うに、原知の差異とは何だろうか。ひょっとして、原知は、同一性しかないのではないだろうか。しかし、それはやはり、おかしい。何故ならば、原知と原身体が即非様相にあるのだから、当然、原知は、同一性だけでなく、差異をもっているはずである。同一性だけなら、即非にはならない。i=- iになってしまうからである。
 ということで、原知は、差異と同一性との合一であるとして、原身体も、同様に、差異と同一性との合一であるとしよう。
 では、後者は「感」における差異と同一性である。これをどう見るのか。「感」における差異とは、直感・直観の差異である。感の特異性である。そして、「感」における同一性とは、対象との合一性であろう。そう、投影性と言ってもいいのかもしれない。否定的な意味での感情がこれに入るのかもしれない。
 とまれ、以上の考察から、原知(差異/同一性)*原感(差異/同一性)という図式が考えられた。簡単に、知識*感識とできよう。
 そうすると、同一性の有り様が、異なるだろう。知識の同一性は、感識に対するもので、知識的同一性を感識に押しつけて、それを否定するのである。即ち、知識→感識=知識同一性である。
 それに対して、感識の同一性は、感識的同一性を知識に押しつけて、それを否定するのである。即ち、感識→知識=感識同一性である。
 また、差異について言えば、知識の差異があり、それは、感識との距離を生む。そして、感識の差異があり、それも、知識との距離を生む。知的差異と感的差異があることになる。
 では、このような四元的な差異/同一性がメディア・ポイントにおいて、現象化するとき、どうなるだろうか。これまでの考えでは、同一性化ないし連続化が発現するのである。
 以上の視点から言うと、知識同一性と感識同一性が作用することになろう。具体的に言えば、対象Xに対して、主体は、知識=言語的同一性である山を当て、そして、感識同一性的には、山に自己投影していると言えるのではないだろうか。主体・自己と客体・対象とが溶け合っているのである。正に、ナルシシズムであろう(神話では、ナルシスは、水面に映る自分の姿を見惚れている)。
 ということで、現象的同一性とは、知識且つ感識的同一性が形成されると考えることができるようだ。そして、これが、自我の原点・基盤であろう。仏教で言えば、色(しき)である。
 しかしながら、同時に、二つの差異が存しているのである。知識の差異と感識の差異である。これらをどう見るのかである。
 知識の差異は感識から距離を置き、感識の差異は知識から距離を置く。つまり、当然ながら、知識の差異と感識の差異とは、両者、知識と感識の溶合的同一性から離れている。思うに、ここで、知識の差異と感識の差異とが、ある種、連携するのではないだろうか。思うに、それは、知識と感識の対極性を形成しているのではないだろうか。とりあえず、作業仮説として、それらは、極性をもつとしよう。否、ひょっとすると、それらは、即非性かもしれない。なぜならば、あるときは、知識の差異が主導的であったり、あるときは、感識の差異が主導的であったりするような、いわば、融通無碍なものであるからである。思うに、この場合は、対極性でも即非性でもいいだろう。
 ここで簡単にまとめると、現象化において、知識と感識との同一性溶合(自我)が生起し、また、同時に、知識と感識との差異的対極・即非性(自己)が生起するということになる。これが、人間の基本的意識の構図であると考えられる。
 さて、ここで、近代化の問題であるが、当然ながら、同一性が差異を否定・排除するのである。
 この近代化の主因であるが、それは、端的に、同一性認識が差異認識に対して、主導的になったことである。簡単に言えば、可視界とその数量的同一性が主導的になったことである。簡単に言えば、五感的同一性と言っていいだろう。
 もっとも、ルネサンスを含めて、プロト・モダンにおいては、差異と同一性の両面が混淆的に作用していたと言えよう。そして、近代主義は、同一性主義によって、差異を否定・無化していったのである。
 この理由は先にも述べたが、物質的欲望へと人間が傾斜したことであろう。つまり、同一性欲望が主導的になり、差異のもつ精神性・心性・霊性を否定していくのである。貨幣経済、商品経済、資本主義の発達が起こったのである。そして、究極的には、唯物論が生まれて、差異を全否定する事態になるのである。近代科学は唯物科学であった。(現代科学は、差異を対象とする科学であり、脱近代科学である。)
 さて、以上のように、差異と同一性の関係を検討したが、最後に簡単に無意識について触れたい。精神分析ユング心理学等が、無意識について述べているが、思うに、無意識とは、感識のことではないだろうか。私がよく直観と言うが、それは、感識である。普通の人は、同一性知識で考えているから、感識が衰退しているのである。
 無意識とは、実は、意識化できるのであるから、矛盾する言葉である。だから、感識の方が適切だと思うのである。
 また、非合理主義や神秘主義であるが、それは、感識中心になっていると思う。それは、知識を排除する傾向にあるので、反動的なのである。
 とまれ、思うに、プラトニック・シナジー理論で、差異共振化が起こったとき、単に、感識の差異が肯定されるだけでなく、知識の差異も肯定されるということになろう。知識と感識の差異的対極性(即非性)の形成である。これが、正に、自己認識方程式i*(-i)⇒+1を指すだろう。知識の差異がiであり、感識の差異が-iであり、両者が対極性(即非性)を形成して、統一化(⇒+1)しているのである。
 今は、ここで留めたい。