極性と構造:極性と同一性構造の併存としての現象界とPS理論的脱連続

極性と構造:極性と同一性構造の併存としての現象界とPS理論的脱連続現象化


テーマ:メディア・ポイント


PS理論的生命論の構築のためには、当然、基礎論が重要である。今の予想では、メディア・ポイントMedia Point(以降、MP)の様相に基礎があると考えられるのである。
 今、簡単に問題点をあげると、極性と同一性構造との関係である。生命現象であれ、物質現象であれ、極性が支配していると言えよう。磁気はN極とS極の極性があり、電子は+と−の極性がある。(重力をどう見たらをいいのだろうか。思うに、作用と反作用との極性があると見ることができるのではないだろうか。)
 PS理論において、イデア界は差異即非共振性をもっている。これは、広義において、極性と言えるだろう。
 では、問題は、同一性構造である。ないし、二項対立構造である。(弁証法とは、極性と同一性構造との折衷理論と考えられる。)
 まとめると、極性と同一性構造との関係の様相が根本的に重要と考えられるのである。これは、端的に、MPの様態の問題と換言できよう。
 つまり、極性現象と同一性現象との併存が現象化には生起しているとということではないだろうか。前者は⇒+1で、後者が⇒-1ではないだろうか。
 つまり、MPは、現象化において、極性と同一性とを発現させるということである。これは、ガウス平面での虚数軸の様相と実数軸の様相(実際は、無理数があるので、複雑であるが、ここでは、簡易化する)として、把捉できるように思う。
 つまり、MPは、虚数軸性=極性性と実数軸性=同一性性とを並存的に、現象化させるということになろう。言い換えると、差異と同一性との併存現象である。さらに言い換えると、即非論理と同一性論理の併存であろう。
 ここで、生命論を考えると、生命も、両者の併存現象と言えるだろう。しかしながら、人間の除いて、一般に生命は、前者が主であり、後者が従であるのではないだろうか。具体的に言えば、食という行為は、明らかに、同一性論理であり、他者を否定して、自己の食料とするのである。つまり、他者の殺戮がここにはあるのである。しかしながら、人間の除いた生物、特に、動物は、食が満たされれば、共存的になる。もっとも、サルのようにヒエラルキーを形成する場合もあるが。端的に、人間ほど、残忍で殺戮的ではない。
 人間の場合、明らかに、同一性論理、同一性構造論理が強化されているのである。大脳の発達と関係しているだろう。自我の発達である。これは、他の動物には、ほとんど見られないと言えよう。
 つまり、人間の場合、極性/差異論理を否定して、同一性構造論理を中心化しているということである。これは、アリストテレス哲学に発現していると言えよう。同一性合理主義(同一性ロゴス主義ないし、同一性理性主義)と言ってもいいだろう。
 生命論に戻ると、結局、生命現象も、本来は、極性優位で、同一性は劣位であったが、人間の場合は、逆転していると考えられる。
 結局、これは、知(叡知)と認識に関わると言えよう。他者を主体が同一性化することは、主体的知の第一歩であろう。例えば、眼前に動く対象は、猪であり、それは、食料にできるという認識である。あるいは、この穀物は、実をつけ、食料化できるのであり、それを、対象化して、穀物の栽培という農業へと展開できるのである。
 これは、数化や言語化と関係していると言えよう。これが、同一性構造論理化と言えよう。数/言語化と呼んでおこう(もっとも、数と言語の関係は別に検討する必要があるが、ここで、知化の基礎として、同列化しておく)。
 とまれ、極性(差異)と同一性の併存とその優劣については、これで充分だろう。
 生命論から言うと、細胞膜や液体や個体性が重要である。つまり、単体性の問題である。勿論、集合性ないし社会性の問題も関係するが、先ず、単体・個体がなければならないだろう。主体と客体との境界がなければならないのである。
 境界とは、PS理論では、メディア領域である。これは、思うに、生命体(生体)は、メディア領域を、取り込み、また、同時に、境界(例えば、細胞膜や皮膚)とすると思われるのである。
 メディア領域とは、例えば、差異と同一性との境界であり、差異と差異との境界、同一性と同一性との境界等と考えられよう。
 ここで、整理しよう。イデア即非差異があり、それが、MPの回転によって、極性と同一性の併存的現象化を生起させるとしよう。
 ならば、極性と同一性の併存的現象と境界や個体との関係が問題である。ここでは、作業仮説的に、形相としてのiが形態を発生させるとしよう。そして、質料としての-iは、個体化すると言えよう。これで、個体化の説明はつくが、問題は、境界性である。細胞膜は、細胞という個体を閉じるものであるが、同時に、体液等を浸透させる境界である。これは、差異ないし極性から来ていると思える。
 だから、まとめると、極性と同一性との結合として、個体が発生すると言えよう。これで、生命のアウトラインができた。そして、人間と他の生命体の違いは、上記した通りである。
 ここで、PS理論ないし即非論理を考えると、これは、同一性論理を超越した論理であり、それは、同一性論理を超えて、極性へと回帰していると言えよう。しかしながら、単純な極性論理でなく、同一性論理を経ているので、いわば、螺旋的回帰である。この点を見間違わないようにしないといけない。
 だから、対極性(太極)と即非論理は一見に似ているが、異なるのである。確かに、即非論理は、一種先祖返りであるが、それは、同一性を超越した点で「先祖」とは異なっているのである。とまれ、PS理論は、新東洋原理と言えるだろう。
 ここで、以上の検討の視点から現代を見ると、近代主義によって、同一性へと恐ろしく傾斜した社会、世界となっている。しかし、単に、極性(対極性)への回帰では反動である。つまり、極性と同一性の連続性という現象性から脱却していないのである。問題は、不連続化によって、差異を同一性から分離することで、イデアを掬い上げることである。
 極性と同一性との連続的混淆が、ポスト・モダンであったと言えるだろう。問題は、差異へ、超越的差異へと超越・超出することなのである。即ち、トランス・モダン化である。
 格差社会というものも、資本の同一性からの結果である。資本の差異化、差異共振化によって、格差主義が解消されるだろう。差異共振化の知によって、資本は同一性による排他性から脱却できるのである。