イデア的差異即非性と極性/同一性構造

イデア的差異即非性と極性/同一性構造


テーマ:メディア・ポイントMedia Point Mon, July 16, 2007 18:26:29


先に、イデアの現象化として、極性と同一性(構造)との連続態を考えたが、そこでは、差異と極性との区別があいまいであったので、ここで、整理したい。
 差異とは、ここでは、即非共振性ないし即非性である。だから、即非性と極性とをどう区別するのかということになる。磁気のN極とS極との極性があるが、 NとSは即非性があるのだろうか。即非性があるのなら、NはNであり、同時に、Sであるということになるだろう。N=Sは強弁になるだろう。だから、両者は区別される。
 極性は、対極・両極性でもある。これは、対(つい)になるものと一体となっているということである。確かに、NとSとは、磁場において、一体ではある。しかし、即非ではない。
 だから、メディア・ポイントMedia Point(以降、MP)における差異即非イデアの変換として、極性と同一性構造の連続体が発生するということではないだろうか。
 極性と同一性構造の連続体とは、正に、現象体であり、人間の除いた生命体では、極性が優位で、同一性が劣位であるが、人間においては、逆転していると考えられる。
 言い換えると、人間以外の現象生命体は、基本的に、自我がなく、無意識である。そして、人間は、自我があり、有意識である。
 先に述べたことだが、自我、有意識の苦悩・苦痛から逃れようとして、動物や植物的極性に戻ろうとするのは、反動である。極性が優位、同一性が劣位の生活には、戻れないのである。それをするなら、白痴や狂気になるだろう。
 以上を整理すると、MPにおけるイデア的差異即非から、極性/同一性構造という現象連続体への不可逆的な転換があると言えよう。換言すると、イデアから心身二元論への不可逆的転換である。ここで生命体について言えば、極性/同一性構造が生命体であると考えられる。
 問題は人間の場合であり、差異の存在である。現象的連続体が形成されるが、では、差異は、そのときどうなるのか。
 その前に、差異と極性の関係を解明しないといけない。ここでは、作業仮説的に、差異(イデア)が、実数的MP即ち、実数的ゼロにおいて、極性に変換すると考えたい。つまり、不連続性から連続性の変換がイデアから極性への変容に生じているのである。(ついでながら、弁証法とは、極性と同一性構造との折衷的統合であると考えられる。)
 では、問題は差異(イデア)と極性/同一性構造との関係である。これは、MPの様相の問題である。これまで、私は、同一性が差異を否定・排除・隠蔽して、同一性自我を形成すると説いてきたが、そうすると、差異(イデア)が、現象性においても存するということになるのではないだろうか。これをどう考えるのか。
 確かに、MPにおいて、差異(イデア)は存するのである。ただし、虚数的MP、虚数軸においてである。
 先に、明日野氏によるオイラーの定理微分が反時計回り1/4回転になるという発見について言及したが、そのとき、実数軸的MPと虚数軸的MPとが交替するのではと述べた。
 この交替説を取るならば、差異(イデア)が超越的に発動するときがあるだろう。そう、イデアとしての差異がMPにおいて、共鳴するのである(「聖霊」的エネルゲイア)。
 そして、この差異(イデア)の発動を同一性や連続性は否定すると言えよう。
 近代主義、近代合理主義とは、この差異(イデア)、「聖霊」的エネルゲイアの否定であったと言えよう。
 そうすると、人間も他の生命体の場合も、差異(イデア)が発動するのではないだろうか。そう、動物や植物は、連続性があっても、同一性は劣位であるから、人間のように、差異(イデア)を否定しないだろう。つまり、動物や植物はイデア界に触れていると言えるのではないだろうか。イデア界の波動をもっているのではないだろうか。
 人間の場合、連続性や同一性から、差異(イデア)を否定するのである。ここに人間の悪(自我=悪魔・悪霊)が生じるのである。
 人間は、差異(イデア)を否定したいのである。しかしながら、差異(イデア)は反復するので、正直な人は、差異(イデア)を肯定するようになると考えられるのである。もっとも、極性/同一性構造との調和に苦しむことになると考えられるのであるが。
 宗教の創始者は、差異(イデア)を「神」、「神霊」として捉えたと考えられる。
 ということで、MPの視点から、差異と極性/同一性構造との関係の説明を試みた。