デリダ哲学ないし「ポスト構造主義」批判:「差異」と同一性の動態構

デリダ哲学ないし「ポスト構造主義」批判:「差異」と同一性の動態構造としての「ポスト構造主義


テーマ:デリダ哲学・ポスト構造主義批判


構造主義について、差異と同一性の点から整理したい。既述事項ではあるが、所謂、ポスト構造主義に対して疑義を強くもっているからである。
 構造主義は、私見では、と言うか、プラトニック・シナジー理論(PS理論)から見ると、実数軸のメディア・ポイントMedia Point(MP)を中心とする思考である。ここにおいて、±ゼロ度の対立原理と同一性原理が発生すると考えられる。
 同一性原理について言うと、ある個体と他の個体との関係において、例えば、前者が主体化されて、他の個体を同一性化するという原理である。ここでは、前者が優位となり、後者は劣位となる。二項対立の原理と言ってもいいだろう。
 ±ゼロ度の対立原理であるが、それは、ある極性原理であり、+の様態の度の同等の−の様態の度が発生し、量的に加算すると、ゼロ度になる関係である。+100ボルトに−100ボルトである。
 さて、構造主義であるが、それは、これら二つの原理の結合したものと考えられるのである。対になる項があるが、それらは、対立し、差異を形成する。しかし、一つの項が優位になって、他の項が劣位になる。しかし、同時に、逆の事態も考えられるのである。相剋の状態にある対立項と言えよう。一般に構造主義は静的な差異の体系と考えられるが、実は、その静的様態は、動的様態を潜在させていると考えられるのである。
 以上、簡単であるが、これを基盤として、ポスト構造主義批判をすると、それは、構造主義の動的様態に過ぎないと考えられるのである。例えば、デリダフッサール現象学批判とは、以上の構造主義的動態性を根拠にすれば、フッサール現象学に、「差異」(超越性)と同一性との混淆を見て、その同一性からフッサール現象学の不整合性、一貫性のなさを批判する(脱構築)するのである。
 つまり、デリダの批判とは、「差異」と同一性の連続体である動態的構造をベースにして、それをフッサール現象学にも見て、その、言わば、不純性を批判するのである。そして、それを脱構築すると呼ぶのである。つまり、デリダ脱構築理論、「ポスト構造主義」とは、動態的構造主義であり、その視点を他の哲学・理論に反映させて、それらの理論の不整合性を暴き、批判するのであり、結局、当然ながら、自身の動態的構造主義が肯定されるのである。
 この方法をどう判断したらいいだろうか。それは、方法論として、不正確なものである。何故なら、動態的構造主義が前提となり、それを他の哲学・理論に投影して、批判するのであるからである。それでは、他の哲学・理論のもつ特異性が喪失されざるをえない。実際、フッサール現象学に対するデリダの批判は、フッサール現象学のもつ超越性を喪失しているのである。
 そう、デリダは、確かに、超越論的差異について言及しているが、その超越論性は、フッサールの超越性を喪失しているのであり、実際は、動態的構造主義の「差異」を説いていると考えられるのである。