生成消滅のサイクルという法則と宗教:根源界と現象界の乖離と新たな

生成消滅のサイクルという法則と宗教:根源界と現象界の乖離と新たな関係


テーマ:新霊性new spirituality


以前にも述べたが、ニュースを見ると、世界あちこちで、戦争があったり、いざこざ、争い、問題が蔓延している。人類の末期症状と言えるのではないだろうか。
 ここには、平和の知恵・意志・志向がないのであるが、問題は、利己主義に囚われていることがいちばんの問題である。利己主義からの脱却を説く叡知は多いが、それが機能しなくなっていると言えよう。結局、世俗問題、物質的同一性が大きな問題となり、それらからの脱却を説いていた宗教的叡知は無視されていると言えよう。
 端的に言えば、欲望の問題である。これに対して、これまでの知恵が役に立たなくなっていると言えよう。
 仏教にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、今ある形では有効ではないだろうし、逆に、利己主義に仕えていると言えよう。アンチになっているのである。
 プラトニック・シナジー理論(PS理論)から見ると、根源であるイデア界と同一性・欲望の現象界とが、一般においては、無関係になっているのである。というか、一般においては、根源であるイデア界が完全に喪失されているのである。
 ただ、同一性・欲望の物質・現象界と小さな良心があるだけの世界だろう。近代主義の帰結であり、ポスト・モダン化である。
 私が言いたいのは、正に、ヘラクレイトスの万物は流転するということである。生成流転である。あるいは、生成消滅である。これが、森羅万象に当てはまる大法則であると思うのである。
 だから、宗教は例外ではない。今日の宗教も消滅するし、それが正しいと思うのである。ただし、新たに生成ないし創造される叡知があると思うのである。
 モダンないしポスト・モダンは、人類史における特異な時代と考えられる。それは、根源との知的・意識的結びつきを人類が断った時代であるからである。物質的現象に同一性化した時代である。そう、根源界と現象界との乖離がこの時代の特徴である。この点に関する問題点は、不連続的差異論の時期に、解明したので、ここでは縷々述べないが、簡単に言えば、差異と同一性との不連続性が原則として確認されなければならないということである。
 ポスト・モダンは、両者の連続性に立脚していたために、モダン的同一性を脱却できなかったのである。というか、連続的差異の理論である(ポスト)構造主義に留まったのである。
 不連続的差異、さらには、超越的即非的差異(PS理論)へと飛翔することで、構造主義的閉塞から脱出できるのである。
 これを宗教に当てはめれば、「神」、「仏」と「自我」との連続性から、ないし、構造化された「神」や「仏」からの脱却が実現するのである。おそらく、脱宗教=新叡知へのエクソダスと言えるだろう。
 宗教を否定するのではなくて、宗教をその連続性や構造性から解放して、純粋化するのである。そこでは、プラトンイデア界と諸宗教の神仏の世界が一致するのである。また、科学の世界もそこに根源を見いだすことになるのである。芸術も当然である。
 それは、差異共振の世界である。根源的調和・平和・共存の世界である。これを取り戻さなくてはならないのである。これが見失われているために、世界は、戦争・争いこと・犯罪・事故に満ち満ちているのである。
 人類が根源界へと脱皮する時期になったと言えよう。一回転、一サイクルが過ぎたと思うのである。古いサイクルが終焉して、新しいサイクルが始まると思うのである。


p.s. モダンの同一性主義とポスト・モダンの連続的差異主義(「ポスト構造主義」)の相違が明確ではないかもしれないので、簡単に説明したい。
 モダン、即ち、近代主義、近代合理主義は、物質的量的合理性=同一性を基礎としている考え方である。それは、主体では、自我的同一性に基礎を置いている。
 それに対して、ポスト・モダンは、「差異」を提唱したのである。それは、モダンないし西洋文明の同一性主義の乗り越えを意図したものであった。しかし、理論的中心と考えられたドゥルーズにしろ、デリダにしろ、彼らの説く「差異」とは、連続的差異であったのである。ドゥルーズの場合は明瞭であるが、デリダの場合はわかりにくいので、少し説明しよう。
 デリダ哲学は、フッサール現象学批判から、始まったと言えよう。そこでは、フッサールの超越性が、同一性と混淆していることが提示されて、フッサール現象学を、言わば、脱構築しているのである。(脱構築とは、批判であり、批判対象の変容のことである。)
 つまり、フッサール現象学が、超越性と同一性との混淆態として説かれているのである。その結果、フッサール現象学の超越性が同一性のレベルに落ちているのである。また、デリダは、混淆態における超越性と同一性の差異を差延と呼んでいるのである。
 結局、本来、フッサール現象学の超越性が、ハイデガーにおいてそうであったように、無視されて、同一性のレベルに落とされて、別物にされているのである。
 同一性のレベルとは、端的に、現象界のレベルである。問題は微妙である。超越性は本来、同一性と混淆しない。しかし、デリダにより、両者の混淆が説かれているのである。混淆が生じるには、両者が同レベルになくてはならない。これを同一性のレベルと言ったのである。言い換えると、構造性のレベルである。
 構造性から同一性、とりわけ、連続的同一性が発生する。つまり、換言すると、《力》の問題である。同一性ないし連続的同一性は《力》の問題である。それは、他者を同一性化する力動をもっているからである。力学である。同一性力学である。
 この《力》は、構造性から発するのである。つまり、構造力学から発するのである。(一般に、構造は静的なものと考えられているが、そうではなくて、構造は、実軸のゼロ度の極性から生まれると考えられる。ゼロから正負の極性が生まれるのであり、このゼロ・ポイントに《力》があるのである。)だから、構造的同一性力学である。
 ということで、この視点からデリダの説く超越性と同一性の混淆態を考えると、フッサールの超越性が、構造性に還元されているのがわかるのである。つまり、フッサールの超越性は、ゼロ度の構造に転換されてしまっていて、誤読されているのである。
 結局、構造と同一性の混淆がデリダの説く脱構築主義、差延主義なのである。だから、これは、ドゥルーズの連続的差異の理論と同質なのである。なぜなら、構造ないしゼロ度の実軸は、連続的差異を発生させるからである。
 さて、最後に、構造性と同一性の連続性について説明すると、それは、上記からでも理解できるが、構造力学が同一性力学に連続しているということである。
 そして、両者を不連続化すると、構造力学は解体して、超越性へと還元されるのである。フッサール現象学の超越性と言ってもいいかもしれない。しかし、PS理論では、さらに、これを即非的差異というイデアとして考えているのである。