直感/直観から、メディア・ポイントMedia Pointの様相やPS理論を説

直感/直観から、メディア・ポイントMedia Pointの様相やPS理論を説明する


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


整理するつもりで、本件を書きたい。

イデア界からメディア・ポイント(以降、MP)を介して、エネルギーが発出して、特異性と同一性の混淆である自我が生まれる。特異性は個である。つまり、自我は、本来、個と同一性的自我の二重性をもっている。そして、特異性(個)と同一性は、連続的である。
 連続性であるが、それは、特異性がエネルギーないし力をもっていて、それが同一性を支えるからである。特異性のエネルギーが同一性形成に作用するのである。
 しかし、特異性のエネルギーが同一性へと向かわずに、それ自体において静まる場合がある。このとき、特異性と同一性はいわば分離ないし共立する。
 つまり、特異性と同一性において、連続化するときと、平行化するときがあるのである。プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)は、後者に不連続態として特化して、特異性と同一性を分離するのである(正確に言えば、不連続的差異論の様態である)。
 このとき、不連続化された特異性(ドゥルーズの説く特異性は、連続化されているもので、誤った観念になっている)は、イデアに通じる回路を形成したと考えられる。
 ここで、簡単に、PS理論におけるイデアについて説明すると、それは、周知の同一性のイデアではない。同一性のイデアは構造と等価と考えられる。それは、静的であり、形相に近い。
 因みに、PS理論において、イデアは、相矛盾するものが即非の様相となっているのである。A≠〜Aであり、且つ、A=〜Aである。鈴木大拙即非の論理をイデアに見ているのである。だから、即非イデアないし差異即非イデアと言うこともできよう。イデア論を創造的に深化させたと言えよう。
 さて、不連続化させた特異性であるが、それは、PS理論においては、実軸的原点を離脱して、虚軸的原点に達していると考えるのである。(PS理論は、数学化して、ガウス平面をもってイデア界と現象世界を考えている。)そして、原点は、メディア・ポイントMedia Point(以下、MP)と呼ばれる、イデア界と現象世界を交叉させる重要なポイントである。
 問題は、虚軸的MPに達した特異性である。特異性は、イデアに触れているのであるが、他方、同一性があるが、これも不連続化した同一性であり、同一性が言わば、特異化するのである。例えば、連続性において、山とは、個別性であり、一般性であるが、不連続化した山は、特異性となり、他の山と比較できないものとなるのである。
 思うに、これは、ヒューム哲学に少し似ているだろう。山は、一般的観念から分離して、特異性となり、個々の山はすべて特異性となるのであるから。これは、同一性の特異性化と言えよう(以前は、差異的同一性と呼んだ)。
 結局、イデアに触れた自己特異性と同一性の特異性(現象)の「共立」する世界が生起するだろう。そして、結局、特異性の世界となる。イデアに触れた自己特異性は、即非性をもっている。これが、理念である。差異共振性である。この理念と特異性化された現象の関係を見ると、現象において、特異性と特異性との共振化をもたらす志向が発動すると言えよう。
 この現象世界における特異性の共振化であるが、思うに、イデア即非共振エネルギーや知が作用しているだろう。イデア界が現象界に作用しているのである。以上が、PS理論がもたらす世界の様相である。
 現象世界における共振化のためには、MPが開かれている必要があるが、実際のところ、一方の側からのMPからはたらきかけとなるだろう。これが、創造的営為である。
 ここで、やや飛躍して、イエスのことを言うと、「神の国」とは、イデア界であり、「聖霊」が即非共振エネルギーのことだろう。「愛」も同じだろう。イエスは、連続的同一性による利己主義が蔓延る世界において、悲劇的に、イデア界の教えを説いて、世俗権力世界と衝突したと考えられる。
 イエスイデア界=神の国の教えは、キリスト教会によって捩じ曲げられてしまったと言えよう。プラトニスト・イエスの叡知は、歪曲されてしまったのである。
 さて、簡単に注意点を言うと、虚軸的MPとは、不連続点であり、実軸的MPは連続点である。そして、連続性とは、虚軸と実軸との連続性でもあるだろう。この時、イデア・エネルギーは、同一性化して、反動エネルギーになるのである。暴力的エネルギーになるのである。いわば、神の悪魔化である。
 最後に、ポスト・モダン哲学についてであるが、既に、何度も述べたが、ドゥルーズ哲学の差異理論が連続的差異に基づくことは不連続的差異論の形成のときに論じたが、つまり、実軸的MPを構造にしているのであり、これは、エネルギーがあるので、同時に、動的構造であり、この動的構造の発生させる力を「差異」としているのである。だから、ドゥルーズ哲学は、構造主義の展開に過ぎない。
 また、デリダ哲学であるが、やはり、差延(差異)という考え方は、実軸的MPを基礎としていると考えられる。つまり、実軸的MPの動的構造のエネルギーが同一性に対して、プラスアルファ的にズレをもたらし、差延を発生させると考えられるからである。換言すると、同一性+エネルギーである。これが、この+エネルギー分が同一性に対するズレ(差延)をもたらすということである。

p.s. 以上の考察から、ウスペンスキーの四次元論を考えたらどうなるだろうか。
 万象の特異性化がポイントではないだろうか。つまり、万象にMPを見ることになるだろう。MPは虚軸が交叉しているので、いわば、四次元が発生していると言えるのではないだろうか。結局、PS理論は、四次元論である。それは、量子論を超えて、超量子論である。超光をイデア界に見ているのである。
 結局、現象世界を四次元的に把捉するのが、PS理論と言えるのではないだろうか。そして、四次元的視点で、物質同一性化した現象世界に、差異共振性をもたらし、現象世界に調和・和解・バランスをもたらすと言えるだろう。やはり、水瓶座的である。