連続性はどこから発生するのか:特異性(差異)と同一性との関連

連続性はどこから発生するのか:特異性(差異)と同一性との関連


テーマ:プラトニック・シナジー理論


本稿は復習になるかもしれないが、特異性(差異)と同一性との現象世界における連続性の様相について検討したい。
 特異性・差異・個のエネルギーが同一性自我と連続化しているのが、現象世界一般の様態だと考えられる。何故、個と自我とが連続化するのか。それは、同一性が原因である。
 主体は、主に視覚を介して、外界を知覚・認識する。(勿論、五感全体であるが。)この外界認識が同一性認識なのである。自我同一性を外的対象に投影して、外界を認識するのである。この投影が、連続化の原因と考えられるのである。主体自体の同一性が外的対象に投影されるのだから、主体と外的対象は連続していると言うことができる。よって、それを連続的同一性認識と呼ぶことができる。
 結局、連続性は外界認識から必然的に発生するのである。そして、主体における特異性・差異・個であるが、それは、内界において存するものであるが、内界認識(反省・内省・省察)が十分発達していないと外界認識の連続性に内界性である特異性・差異・個が巻き込まれると考えれるのである。
 そして、近代主義は、外界認識中心であり、内界認識を疎かにしているので、特異性・差異・個の連続化はほぼ必然的に生起すると考えられるのである。
 プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)は、特異性・差異・個を主体のメディア・ポイント(以下、MP)と見ている。そして、これは、エネルゲイア・エネルギー放出点と考えている。言い換えると、主体の動態性・ダイナミクスが発生する点である。
 また、このダイナミクスをもった内界はプラス・エネルギーとマイナス・エネルギーに展開して、極性構造をもつと考えられるのである。思うに、対極性とはここに発生するのだろう。
 そして、この極性(対極性)構造と同一性構造とが連続化したものが構造主義の構造と言えるのではないだろうか。同一性構造に傾斜すれば、静態的であり、極性構造に傾斜すれば、動態的になると考えられる。
 さて、ここで、これまで述べてきたポスト・モダン哲学について、再論すると、ドゥルーズ哲学に関しては、正に、構造主義的差異論と考えられるのである。何故なら、ドゥルーズの説く差異とは、連続的差異であるからである。極性構造と同一性構造の連続化によって、差異が連続化されると考えられるのである。(極性構造と差異との関係については、後で考察する。)
 デリダ哲学の場合、同一性構造を批判して、同一性が差延と結びついていることを述べるのであるが、同一性と結びついた差延(差異)とは、正に、極性構造と同一性構造との連続性に関係すると考えられるのである。だから、既述したように、デリダ差延(差異)とは、ドゥルーズの差異と同質であると考えられるのである。
 さて、ここで、極性構造と差異について考察しよう。これは、ほとんど自明である。何故なら、MPである特異性・差異・個において、エネルゲイア・エネルギーが放出されるのであり、そこにおいて、極性(対極性)が発生すると考えたのであるから、極性構造と差異は等価であると言える。
 しかしながら、精緻に見ると、特異性・差異・個とは、MPであり、超越(虚数)的差異(イデア)に接している、ないし、接しうると考えられる。ここに、不連続的差異論の意義があるのであるが、極性と同一性の連続性を切断すると、極性が不連続化して、超越的差異(イデア)と関係すると考えられるのである。
 不連続化された極性であるが、それは、イデアと現象との中間態になると考えられる(参考:素粒子や量子)。極性と言うよりは、エネルゲイア・エネルギー自体になると言えよう。あるいは、超量子/量子状態ないし超光/光の様態になると言えよう。
 ここで、フッサール現象学を考えると、それは、不連続化された極性(特異性・差異・個)と同一性との連続態ではなかったかと思えるのである。現象学的還元が、不連続化をもたらした考えられるのである。しかしながら、フッサールの強固な同一性志向によって、その不連続化された極性が純粋に差異化されずに、同一性の様相を帯びてしまったように思えるのである。
 そう、ハイデガーデリダフッサールの不連続化された極性、言い換えると、不連続化された超越論性を看過したと考えられるのである。