差異(特異性・個)と同一性・自我との連続性に関する補正:差異への

差異(特異性・個)と同一性・自我との連続性に関する補正:差異への否定的連続性をもつ同一性


テーマ:差異と同一性


先に、本件の連続性について述べたが、一つ重要な要素が抜けていたので、ここで補正したい。
 それは、以前は十分に述べたものである。即ち、同一性は差異(特異性・個)を否定するということである。だから、外界同一性認識は、内界差異認識を否定するということになるのである。これを押さえておかないといけない。
 問題はこの否定と連続性との関係である。基本的には、連続性から否定が生じると考えられる。というか、メディア・ポイントにおけるエネルギー発動が差異と同一性を発生させて、それから、同一性の発達が差異を否定することになる。人間の場合、同一性に傾斜しているので、差異が否定されて、連続的同一性(自我、大脳)が発達すると考えられる。
 しかし、差異(特異性・個)は元々、メディア・ポイントとして存在するので、同一性に否定されても、潜在するのである。だから、差異と同一性は否定的関係であれ、並存しているのである。ただし、ここでも、両者の連続性が続いている。
 そして、ある事情によって、差異が主体にとって、大きな存在となると、差異と同一性の矛盾が拡大して、主体は分裂した様態となる。一種の精神症的様態である。
 近代主義は、差異を否定した様態で同一性を進展させたのであり、自我は暴力・病理化するのである。
 さて、差異と同一性の矛盾であるが、これは、差異の不連続化以外に解決の方法はない。もっとも、フッサールの場合、不連続化があり、同時に同一性が強固に存在して、それらが重なってしまった。フッサールの場合、現象学的還元のもつ不連続性を十分に認識していなかった可能性がある。
 とまれ、差異が明確に不連続化されると、同一性と分離して、それ自体の価値をもつことになる。それは、超越的差異と結びつくのである。そして、差異と同一性は連続性ではなく、共立性をもつことになる。
 ここで、構造について再考すると、先に、構造を極性と同一性の関係に見たが、極性(差異)が同一性に対して、先験的であることから、発生するのが構造である。しかし、同一性と連続性をもっている場合ので、超越性ではなく、言わば、超越論的になるのである。
 だから、この視点からフッサール現象学の「超越論性」を見ると、微妙で、構造である超越論性と超越性とが重なっていると考えられる。PS理論から言うと、実軸的MPと虚軸的MPが前者中心に重なっているのである。
 デリダ哲学は、この一種複雑な重なりによる矛盾を捉えて批判してノである。そして、虚軸的MPを無化して、実軸的MPと同一性との差異を差延と呼び、その差延によって、実軸的MPと虚軸的MPとの前者中心の同一性的理論を脱構築することになったのである。《差延は、実軸的MP(差異・極性)と同一性との連続態であるから、ドゥルーズの連続的差異と同質である。》
 結局、デリダ哲学は、虚軸的MPないし超越性(超越的差異)を排除しているので、極めて一面的であると言える。つまり、それが、欠陥である。
 最後に注意点を言うと、デリダがいう超越論性とは、実軸的MPであり、構造性である。虚軸的MPの超越性は全くの別物であることに注意しないといけない。
 ドゥルーズデリダは、現象内在的な差異に留まり、脱現象的な超越性を否定したのである。彼らの理論は、構造主義内に留まると言えるのである。以前にも述べたが、ハイデガーによる現象学の構造化が、ポスト・モダン哲学に影響を与えた思えるのである。フッサール現象学のもっていた脱構造的超越性を否定して、構造的超越論性(いわば、カントの超越論性)に引き戻したのである。


p.s. 何故、差異(特異性・個)が同一性との否定的連続性によって構造化されるのかという点について補足すると、同一性が現象界に限定されているため、本来、超越性をもっている差異が、現象界内部に留められるからだと考えられる。つまり、同一性認識が物質的認識なので、本来超越性をもつ差異を物質的同一性形式に限定するということである。これは、正に、カントの時間・空間の超越論的形式に等しいと言えよう。構造主義は、カント哲学に発していると言える。