光と重力:闇と無重力:脱同一性とメディア・ポイント的超越性

光と重力:闇と無重力:脱同一性とメディア・ポイント的超越性


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


先に、無重力状態は、メディア・ポイント(M.P.)状態となり、超重力子が作用して、高次元体験が生じるような、SF的なことを言った。
 即ち、重力は同一性であり、その同一性がなくなる無重力状態(あるいは微重力状態)は、メディア・ポイントが、言わば、開口して、差異である「重力子」(超重力子)との接触が可能になると考えたのである。しかしながら、無重力状態がかならず、M.P.状態をもたらすといえるのかどうか言えないようにも思える。しかし、重力に関しては、もし、重力を同一性と考えるならば、確かに、同一性の力(force)がなくなって、重力の差異が作用する可能性が生じるとは言えるのではないだろうか。この点は、又後で、再考したい。
 さて、このような考えが適切なら、光についても言えるだろう。つまり、光がない状態、無光状態、つまり、闇の状態にあるとき、光に関して、M.P.状態となり、超光が生起するということになるのではないだろうか。もっとも、今日、闇を経験をすることは、稀になっている。疑似的なのは、夜である。都会では、実質、夜の闇は無いに等しいだろう。だから、田舎の夜闇を考えるといいだろう。田舎で月の出ていない夜を経験すると、星空が美しい。これは、闇ではないが、闇に近い状態での光の経験になる。光は同一性であるが、闇によってM.P.的状態になっているということになる。私の経験では、例えば、星空の宇宙に吸い込まれるようなことが何度もあった。あるいは、星空の宇宙との一体感を感じることもあった。パスカルのような虚無的な恐怖感は感じたことがないと思う。
 この星空体験が光の差異、超光子の体験なんだろうか。少なくとも、なにか神秘的な体験に近いものは、日中よりも得やすいとは言える。
 思うに、瞑想(座禅等)は、星空体験に近い意識様態を形成するのではないだろうか。完全に目を閉じる場合と薄目を開ける場合があるが、どちらにしろ、光の同一性を無くしたり、減らしたりして、M.P.的状態に意識を近づけるのではないだろうか。光の差異の様態、超光の様態に近づけるのではないだろうか。これは、考えられないことではないだろう。
 光と重力では、まったく同質とは言えないと思うが、基本的には、同一性状態を否定することで、M.P.的差異様態を発現させるということは共通するのかもしれない。相違点については、後で考察することにして、闇ないし瞑想についてもう少し考察しよう。
 光の同一性を閉ざすことで、視覚作用は抑制される。しかしながら、イメージ作用はなくならない。様々な影像を想起することが可能になる。私の経験では、このイメージ作用はヴィジョンに近くなるのである。ヴィジョンは夢の映像と共通するものをもっているし、これは、文学作品を読むときのイメージと似ていると思う。とりあえず、イメージ・ヴィジョンとでも呼ぼう。
 このイメージ・ヴィジョンは、一方では、同一性の極と差異の極をもっているように思える。差異の極は、M.P.の様相をもつだろう。
 だから、差異の極において、イメージ・ヴィジョンは、超越的様相を帯びることが可能になると思うのである。解脱的ヴィジョンと言ってもいいのかもしれないし、道元のヴィジョンはこのようなものではないだろうか。
 私が言いたいのは、イメージ・ヴィジョンにおいて、M.P.的様相に近づき、超越性に接触しうるのではないかということである。一般には、光の同一性を断つことがポイントになっていると言えよう。
 私の意識では、光の同一性を断つことは、身体性の形成と通じるのである。思うに、視覚に関して言えば、眼が顔の上部についているから、視覚知覚は、身体的というよりは、頭脳的になると思う。眼の局所は、首より上で頭部に隣接している。
 身体性を首より下部とするなら、当然、視覚は非身体的である。同一性は、基本的に、大脳皮質に関係する作用であろう。だから、瞑想すると、視覚が閉ざされて、イメージ・ヴィジョンが形成されて、それは、身体性に結びついているように思えるのである。
 つまり、光の差異化がここにはあると思うのである。そして、それは、身体に関係して、M.P.に通じる。すると、身体とM.P.との関係はどうなのだろうかということが探求されねばならない。
 私の直感では、M.P.は、身体に存するのである。プレ・モダン(前近代)の人は、内臓に心魂があると考えていたようだが、それは、ある意味では正しいだろう。しかし、内臓というのは、少し違うだろう。おそらく、内臓と意識との中間態としての身体があると思う。これを以前、内身体と呼んだが、この内身体とM.P.が関係するように思えるのである。この内身体とは、i*(-i)の*に当たるのかもしれない。形相と質料との中間態としての内身体である。差異である。ないし、差異共振性である。あるいは、超越性である。そう、端的に、この内身体が、M.P.だろう。
 さて、次に、重力と脱同一性について考えよう。重力は光のように、遮断できない。私の直感では、高山や高地と脱重力の志向は、関係する。確かに、万有引力の法則から言うと、距離の自乗に反比例するのだから、高山では、距離が大きくなるから、重力は小さくなる。しかし、微々たるものだろう。しかし、聖地は、高山や高地にあることが多い。なにか、脱同一性と関係していると思う。
 思うに、高山や高地は、重力ではなく、気圧との関係によって、聖地として、選ばれるのかもしれない。あるいは、磁気との関係によってである。
 どうも、重力と脱同一性に関しては、地上ではあまり関係が見られないようである。
 今、思いついたが、海辺に立って、月の重力・引力で、潮の満ち引きがあると思ったものだが、ならば、月の公転は大きな影響を重力的にもたらすはずである。満月、新月、半月では、重力がずいぶん異なるはずである。満月では、太陽と月の引力で、地球の引力が弱化するはずである。これは、重力の同一性の減退とは言えるのではないだろうか。調査に拠ると、満月のとき、交通事故が多いのである。