同一性と差異との境界について:ポスト・モダン哲学とPS理論

同一性と差異との境界について:ポスト・モダン哲学とPS理論


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


本件の問題は、先に、デリダ哲学を問題にしたときに言及した同一性パラドクス様相で説明できるだろう。しかし、ここは、構造主義の構造にも相当するだろう。だから、差異を積極的に説くときには、不十分である。つまり、ここでは、同一性と差異とが、いわば、シーソーをしているのであり、また、同一性志向性が強いので、同一性に力点があると言えよう。そして、これを理論化したものが、ヘーゲル弁証法であると考えられる。カントの超越論とヘーゲル弁証法構造主義は、極論すれば、一致すると言えよう。ただ、カント哲学は、物自体という差異を明確に意識していた点で、他の二者より、優れているだろう。
 では、差異の領域にも配慮した、同一性と差異の境界はどう提示できるだろうか。問題点は、差異を同一性と連続化する視点である。同一性意識に対して、差異意識が発生するが、普通、両意識が連続化しているのである。この連続性の原因は何だろうか。
 直感で言えば、差異は内身体的であるが、普通、同一性自我意識(知性)を中心にするので、それと差異意識が連続化するのである。この連続化の構造はどうなっているのだろうか。
 同一性パラドクス様相がある。しかし、ここにおいて、内身体的差異を肯定する状況が生まれると考えられる。つまり、ポスト・モダン状況が生まれるのである。思うに、この進展の原因は何だろうか。これは、近代主義が行き詰まり、非ないし反近代主義的な志向性が発生して、それが、内的身体的差異を肯定する事態を生みだすのだろうか。言い換えると、それまで、外界に向けられていた視線が内界に向けられて、内身体的差異を肯定することになったと考えられる。
 しかしながら、そこにおいても、意識の原点は、同一性自我意識にあるのである。つまり、近代的意識が基盤になって、内身体的差異意識を内包したのである。これが、連続化の原因・要因・基因・根拠であると考えられよう。同一性自我意識から連続して内身体的差異意識を内包するのである。そして、これが、端的に、ポスト・モダンの思想の様態であると考えられるのである。
 構造主義とポスト・モダン主義との関係は、実に、微妙な点がある。私は、これまで、両者は同質であると述べてきた。構造主義を動態化したものが、ポスト・モダン主義であると考えてきた。つまり、動的構造主義がポスト・モダン主義と考えてきた。このダイナミクスとは、端的に、内身体的差異のエネルギーないし諸力に基づくのである。ドゥルーズの差異やデリダ差延は、これを指しているだろう。
 しかしながら、同一性との連続性がある限り、その差異は、同一性と連続化されて、連続的差異=微分になるのである。これが端的に、既述であるが、ドゥルーズの差異である。そして、デリダ哲学は、同一性認識に差延が混じること(連続化)を指摘して、同一性中心的認識を批判して、差延と同一性の混淆である脱構築主義を提唱するものである。だから、両者の哲学は、同一性と差異との連続性という点で共通しているのである。ドゥルーズは連続的差異を説き、デリダは混淆という脱構築を説いたのである。
 しかし、既述したように、超越性の問題があるのである。私は、先に、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学には超越性があるが、デリダ哲学にはないと述べた。換言すると、前者はM.P.を取り込んでいるが、後者はそうではないということである。
 デリダによるフッサール現象学批判(『声と現象』)を見る限り、デリダは、フッサール現象学の超越性を否定して、差延を唱えている。この点から私はデリダ哲学には、超越性はないと述べたのである。
 今考えると、デリダ哲学はより微妙であると思う。超越性に関しては、思うに、やはり、初期デリダと後期デリダでは異なると見た方がいいのかもしれない。初期デリダにおいては、超越性は否定されているが、後期デリダにおいては、「すべての差異はまったき差異だ」と述べていることから、特異性=絶対的差異としての差異をデリダは肯定して、差延の理論からは脱却しているように思われるのである。しかし、この特異性=絶対的差異が超越性であるとは絶対的には言えないだろう。後期デリダは、おそらく、不連続的差異の思想に近づいたが、超越性までに達したかどうかは、不明確であると考えられる。
 そうだから、PS理論の視点から言うと、後期デリダの思想をドゥルーズ(&ガタリ)の思想に適用すれば、PS理論に近づくと考えられる。

p.s. 同一性パラドクス様相=同一性志向性様相であるが、ここから、差異へと転化するということ(ポスト・モダン化)の意味であるが、志向性の転換があると思うのである。近代主義=近代合理主義は、同一性への志向性をもち、それが、物質的合理主義を結びついたのである。
 しかし、ポスト・モダン化は、志向性が明らかに差異へと向かっているのある。もっとも、同一性志向性が、パラドクシカルであるが、差異へと志向しているのである。(だから、それは、連続的差異への志向性であるが。)換言すると、同一性パラドクス様相において、同一性への志向性が、いわば、反転して、差異へと志向したことになる。それ以前は、同一性への志向性は、差異を否定し、排除するだけであったのである。あるいは、同一性への反発として、同一性を否定して、差異を肯定する反近代主義が発現したのである。シーソー様態である。
 しかしながら、ポスト・モダン化は、同一性でありながら、差異を志向しているのである。つまり、同一性と差異との融合を目指しているのである。差異の統一化が発生する。それが、連続的差異=微分の生起であり、ドゥルーズ哲学の意味である。(ライプニッツモナドジーの予定調和論にも、この連続化が生起していると思う。)
 しかし、この同一性と差異との融合とは、やはり、混乱である。なぜなら、差異は超越性を帯びて、物質的同一性とは本来一致しないからである。そのような不一致なものを、同一性と差異との融合は目指すからである。
 だから、このジレンマを脱却するには、両者の不連続化が前提となるのである。さらには、差異の不連続化のあとの、差異の超越化である。