デリダの脱構築理論について:差延と同一性:差延は連続的差異である

デリダ脱構築理論について:差延と同一性:差延は連続的差異である


テーマ:ポスト・モダン/トランス・モダン哲学


デリダ脱構築理論とは、ロゴス中心主義(同一性中心主義)に対して、差異中心主義(差延主義)を提唱することによって、ロゴス中心主義を批判して、それを差異中心主義(差延主義)へと変換することに存するとおおまかには言えるだろう。
 フッサール現象学においては、超越論的主観性のロゴス中心主義が批判されて、それが差異中心主義(差延主義)へと変換される。そのとき、フッサール現象学の提起していた超越性も批判され、否定されていたのである。即ち、フッサールの超越論性には超越性と同一性があるが、その同一性に注目して、超越性をも否定したことになるのである。
 ここで超越論性と超越性の相違を説明しなくてはならない。超越論性とは、構造性と言っていいだろう。形相に近いものである。しかし、超越性とは、超越論性=構造性を超えたものである。カントで言えば、物自体である。
 デリダ哲学は、いわば、フッサールの超越論的超越性を看過して、超越論的同一性を否定して、フッサール現象学脱構築して、差異中心主義(差延主義)に変換するのである。そのとき、当然、超越論的超越性、端的に、超越性・超越界が否定されるのである。
 では、デリダの差異中心主義(差延主義)とは、端的に、何だろうか。例えば、現在を認識するとき、それは、純粋に現在ではなく、過去(おそらく、ないし未来)の様態を経由するので、遅延して、現在が差異化されるということである。つまり、現在は、差延として、存在するということである。言い換えると、現在とは過去の知覚との混淆として存するということである(正しくは、過去と未来との接点である差異として現在があるのであろう)。この混淆という様態が差延を構成しているのである。これは、いわば、時間を連続性として把捉していることになる。言い換えると、連続的差異として時間を捉えているのである(参考:ベルクソンドゥルーズの時間性)。
 だから、差延主義とは、連続的差異の思想なのである。これは、既述したように、ドゥルーズの差異論と同質・同一であると言えるのである。
 では、問題は、連続的差異と同一性との関係である。PS理論から見ると、メディア・ポイント(以下、M.P.)は、超越的差異が同一性へと変形される変換点である(だから、変形点とも呼べる)。超越的差異は、不連続的差異であるが、それが同一性へと変形されるM.P.においては、微妙な変容が生起して、連続的差異(=微分)に変容するのである。これは、一種偽装であり、虚構・仮構である。すなわち、差異は連続的同一性化されるのであるが、ここで、生起した連続性が、差異へと還元されて、本来、不連続な差異が連続的差異として表象されるのである。これは、錯誤である。
 ということで、連続的差異とは、同一性すなわち連続的同一性の連続性による視点から、不連続的差異が錯視的に連続化されて、発生したものと言えるのである。
 ここで、超越性ないし超越界(高次元界)について触れると、先に、デリダ哲学を初期と後期に分け、後期デリダにおいては、超越性を否定しているかどうかは不確定であると述べたが、ここで少し再考すると、デリダの考え方は、超越的なもの、すなわち、形而上学は、ロゴス中心主義であるから、超越性ないし超越界は否定されると考えられる。だから、後期デリダにおいても、超越性や超越界は否定されると考えられるのである。
 やはり、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学は、超越性や超越界の要素をもっているのである。しかしながら、フッサール現象学の超越性を否定しているのであるから、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学は、内在的超越論と呼ぶことができるだろう。
 ここで、今想起したことに言及して終りにするが、ポスト・モダン哲学は、いわば、二つの中心をもっているのではないかということである。だから、楕円なのである。一つは、当然、M.P.であり、一つは、同一性志向性である。換言すれば、差異と同一性の中心である。
 さらに換言すると、M.P.における虚軸性と実軸性ということになるのではないだろうか。ドゥルーズ的ポスト・モダンは、両者の混淆である。デリダ的ポスト・モダンは実軸中心主義である。