「物質」とは何か:超越的差異とMedia Pointと物質

「物質」とは何か:超越的差異とMedia Pointと物質


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


本件の問題については、量子ないし素粒子を考えるのが適切だと考えられる。
 量子や素粒子は通常、物質と考えられている。しかし、PS理論から見ると、量子や素粒子は、MEDIA POINTの様態である。エネルゲイア様態である。問題は、虚軸の世界の意味である。ここは、これまで、イデア界と呼んできたが、誤解を呼ぶので、とりあえず、虚界と呼ぶが、MEDIA POINTは、虚界と、いわば、通じている。つまり、現象界を実界と呼ぶと、虚界と実界の交叉するポイントがMEDIA POINTであり、それは虚界⇒実界の方向性をもっている。(明日野氏が最近解明した事柄は、この方向性においてであると言えよう。また、フッサール現象学に関して言うと、その超越論性とは、虚界⇒実界の⇒であると言えよう。)
 量子ないし素粒子とは、思うに、⇒と実界との接点のエネルゲイアを把捉したものではないだろうか。だから、虚界性が抜け落ちていると考えられるのである。虚界に存するのが、超越的差異ないし虚的差異である。これが、MEDIA POINTにおいて、実的差異=量子に変換するのである(量子は連続的差異=微分ではないだろう。粒子と波動という不連続性をもっている)。
 私は超越的差異ないし虚的差異を、超量子ないし超素粒子と考えている。光でいえば、超光であり、重力で言えば、超重力である。エネルギーで言えば、超エネルギーである。
 これら超越的差異ないし虚的差異は、量子力学では、測定することはできない。虚界⇒実界の虚界がブランクになっているのである。思うに、ダーク・エネルギーないしダーク・マターとは、本来、虚界の超事象を指しているのではないかと思われる。
 虚界の虚エネルギーがあるのではないだろうか。⇒実界の量子力学のレベルで見る限り、虚界や虚エネルギー(デュナミス?)は捉えられない。つまり、物質主義の限界がそこにはあると考えられるのである。そう、高次元からの低次元への下降を考えなくてはならない。虚界は実界に対して高次元である。実界を三次元空間とすれば、MEDIA POINTが時間(時間空間)で四次元であり、虚界が五次元空間となる。だから、五次元⇒四次元⇒三次元の変換がMEDIA POINTにおいて発現していると見なくてはならないと思う。
 これまでの量子力学は、四次元時空間で「物質」を捉えようとしてきたが、どうしても矛盾が生じてしまうのである。今日、リサ・ランドールのような五次元仮説が量子力学から生まれているが、それは、PS理論と同じ高次元理論である。
 さて、「物質」の問題に返ると、結局、「物質」は、五次元においては、いわば、虚物質、超物質である。それは、物質を超えた高次元の存在である。PS理論では、即非的超越的差異と考えている。デリダ哲学を活かすならば、即非的超越的差異の痕跡として、⇒実界の差延があるとすべきではないだろうか。
 ハイデガーの存在であるが、それは、まだ、同一性に囚われているが、次元としての高次元であると思われる。
 最後に、宗教の次元を考えると、虚界、虚次元、高次元を神として、表象していると思われる。そして、精神、心、魂というものは、やはり、ここから発していると思われるのである。もっとも、精神と言っても、原形相と原質料との即非態である。
 とまれ、精神の下降によって、人間が生まれると言えよう(参照:天孫降臨)。精神の下降は、四次元(時間)化であり、三次元(空間)化である。エネルギーを獲得し、現象化(肉体化)するのである。
 思うに、アリストテレスの『心とは何か』があるが、『心』とは、高次元精神のことであると言えよう。高次元精神は、また、仏教の『心』にある意味で近いと言えよう。
 人間は結局、高次元精神をもっているのであるが、それが、下降という現象化によって、三次元ないし四次元化されて、本来の高次元性を忘却すると言えよう。ハイデガー存在忘却とは、高次元精神忘却と言えよう。
 高次元精神とは霊性である。これは、近代主義において、完全否定されてきたものである。三次元ないし四次元の唯物論によって、否定されてきたものである。西洋では、ロシア人であるが、ウスペンスキーが高次元精神=霊性にいちばん近づいたと言えよう。
 日本は、東洋文化の伝統があるので、仏教のもつ高次元精神性である空や無の思想が継承されてきたが、近代主義によって、一般的には衰退してしまった。そして、高次元精神は隠蔽されてしまった。しかし、禅思想が残る日本文化において、高次元精神はなんらか生きているのである。PS理論は、仏教の思想(鈴木大拙即非の思想)とポスト・モダンの思想を創造的に連結させて、また、KAISETSU氏による数学的理論化によって、現代・未来的な、空前の理論となったと考えられるのである。
 マスター・セオリーである。