ハイデガーの『存在と時間』と三島由紀夫文学:三島ルネサンスへ向け

ハイデガーの『存在と時間』(中公クラシック)を、納得しながら、しかし、冗長な叙述にすこし退屈しながら読んでいたが、ふと、数日前に駅前の本屋で手に取った三島由紀夫の『鏡子の家』の夏雄の富士山麓青木ヶ原樹海での神秘体験の叙述に興味をもったので、購入して、今日読み終えた。そして、今日、未読の『絹と明察』と昔読んだ『豊饒の海』の『暁の寺』を購入して、今、後者を読んでいる。急に、三島文学に夢中になってしまった感じである。
 ハイデガーの『存在と時間』の読書途中であるというのが、なかなか、意味深長である。私が既に述べたように、三島文学は哲学的文学である。そして、ニーチェのアポロとディオニュソスとの視点から三島文学を簡単に考察してみたが、思うに、ハイデガー現象学からも、三島文学は解明できるだろう。もっとも、PS理論から分析できるのである。
 時間や空間の問題が三島文学にあるのであり、輪廻転生もその問題に関係する。それにしても、今回、三島文学が哲学的文学であることを発見したことは、大きな喜びである。そう、いわゆる、日本近代文学の一つ頂点の発見でもある。そして、さらには、トランス・モダン文学の発見でもある。
 漱石は確かに日本近代文学の開拓者であったが、その後、谷崎潤一郎川端康成等の優れた文学が創造されたが、また、戦後においても、それなりの成果があったが、なにか、現代に関係するような文学がないように思えていたのである。いわば、近代と現代をつなぐミッシングリンクとして三島文学を発見したと思うのである。
 三島は自刃による壮絶な事件のインパクトが強く、その面が中心となってしまっているが、文学自体は、それからいったんは切り離して読むべきである。今日の日本が忘却した思想がそこにはある。仏教/プラトニズムの思想である。三島ルネサンスが来るだろう。