地球世界はどこへ向かうのか:ポスト・一神教的西洋文明とコスモス差

地球世界はどこへ向かうのか:ポスト・一神教的西洋文明とコスモス差異共振文明


テーマ:ポスト・ユダヤキリスト教西洋文明


先ほど、精神電磁波の視点から人類史(精神電磁波宇宙人類史)を仮説したが、その視点から、今日のイラク戦争を見ると、キリスト教的西洋文明による世界支配の一環の支配暴力であると見える。そして、サブプライムローンによる信用収縮問題を並べると、一神教的西洋文明の帰結が考えられるのである。
 つまり、Media Pointを同一性=理性=自我によって支配するキリスト教的西洋文明の帰結として、両者を見ることができるのである。イラク戦争においては、「民主化」はイデオロギーに過ぎず、本質は、石油利権、通貨防衛、戦争経済の必要である。同一性=交換価値である貨幣や金融資本が主導しているのである。同一性構造のメカニズムが支配して、いわば、ブッシュはメカニズムのロボットである。
 結局、キリスト教西洋文明は、近代合理主義/物質主義をもたらし、精神電磁波を否定・排除・隠蔽してきたのであるが、今や、精神電磁波の仮説によって、森羅万象が説明できるようになってきているので、私は、いよいよ、ポスト・キリスト教的西洋文明のエポックに地球世界が入りつつあると感じるのである。
 精神電磁波を肯定するには、連続的同一性自我の縛りから解除される必要があるのである。このとき、仏教が重要な理論となるのである。現象学もそうであるが。しかし、自我の縛りからの解除は、もっとも明確に、不連続的差異論/PS理論が説いていると考えられるのである。
 さて、少し話題を変えて、精神電磁波的宇宙人類史仮説を基礎とするならば、いったい現象とか自我とか所有とかは、何だろうかという疑問が浮かぶのである。あるいは、外見とは何だろうか、という疑問が浮かぶのである。自我は外見を反射しているのである。美や醜とは何だろうか。一般には、倫理・道徳よりも、重要な問題である。女性は化粧に熱心である。それは、外見美のためである。男性もファッションを気づかう。外見、外見、外見。【シェイクスピア劇は、外見と内面の乖離を問題にしていると言ってもいい。正に、初期近代にあって、同一性=自我(近代的自我)と中世共同体的価値との分裂を劇作化している。漱石近代主義の問題を扱っている。】
 異性愛があり、欲望があり、争いがあり、殺人が生じたりする。あるいは、物欲・金銭欲があり、人をだまして、金品を奪い取る。これらは、同一性=自我=外見欲望によると言えよう。そう、同一性視覚欲望とも言えよう。同一性欲望は、二項対立なので、端的に、暴力的である。暴力、暴力、暴力である。資本主義の弱肉強食である。新自由主義である。官僚・役人、政治家、富裕者は、冷酷無惨である。すべては、同一性=自我=外見のためである。我欲・我執による。
 思うに、人間は、二種類に分けられる。同一性=自我主義と差異=自己主義である。もっとも、一人の中で、両者が混淆しているだろう。
 欲望とは、基本的には、同一性=自我のものである。聖人でない限り、自分の食物を奪われたら、怒り、奪った者を攻撃するだろう。サバイバルである。確かに、一回くらいはあげてもいいだろうが、頻繁に奪われたら、攻撃せざるをえない。
 とまれ、資本主義は、同一性=自我欲望の世界を形成してきたと言えよう。利己主義・エゴイズムの世界である。そして、その典型がアメリカ合衆国である。
 今や、同一性=自我欲望中心主義のあり方が、不可能になってきているのである。地球温暖化問題がそれを如実に突きつけている。人類が今や地球の癌細胞のようになっているのである。
 私は、PS理論から自由差異共振主義経済を説くが、しかし、同一性=自我=外見欲望はどうなるのだろうか。それはなくならない。ただ、その中心主義はなくなるということだろう。一般には、いい家に住みたいし、いい食べ物を食べたいし、いい結婚をしたいと思うだろう。凡庸ではあるが、一般はそうである。
 結局、同一性と差異とのバランスが肝要なのではと思うのである。差異は、超俗的なところがあり、調和志向である。しかし、同一性は、世俗的であり、好戦的である。
 結局、近代合理主義、資本主義は、同一性=自我=外見欲望を満足させる方向に動いた。貧富の格差や環境破壊等の多大な問題をもたらしつつ。思うに、人体という、皮膚に包まれた形態があるように、ある有限性が同一性=自我=外見欲望にはあるのではないだろうか。それとも、無限に同一性=自我=外見欲望があるのだろうか。確かに、金融資本は、そのように動いているが、サブプライムローン問題があるように、無限ではない。
 端的に、「私」は、全知全能にはなれない。有限でしかない。あるいは、一日十食も食べないだろう。食欲も有限である。性欲も有限である。しかし、物欲、金銭欲は無限ではないのか。
 ここが問題である。同一性である物欲や金銭欲は無限ではないのか。これが、資本主義の核心の問題であろう。私は、同一性=自我=外見欲望は有限ではないのかと言ったが、資本主義において、物欲・金銭欲は無限のように思えることがアンチテーゼとなっている。これは、身体の問題である。身体ある「私」においては、同一性=自我=外見欲望は有限であろう。誰もが老化して、醜くなっていく、一般に。しかし、身体のない資本主義においては、物欲・金銭欲は無限となるだろう。なぜなら、すべては、抽象的な量が支配するからである。そこには、環境という身体がない、国土という身体がない、国民という身体がない、他者という身体がない、等々である。(だから、銀本位制の意義があると言えよう。)
 そうすると、私が説く自由差異共振主義経済とは、身体的経済でなくてはならない。有限的経済である。銀本位制のことはすべて述べたので、ここではこれ以上言及しないが、結局、経済に身体=有限性を与えることが肝要である。同一性と差異とのバランスを取ることでもある。
 結局、同一性の限界をどう確認するのか。物欲・金銭欲の限界をどう発見するのか。繰り返すが、個人においては身体があるから、それらは限界をもつが、資本主義的企業においては、抽象的量が中心であるから、身体がないのである。企業には身体がないのである。そう、だから、企業は同一性の幽霊・亡霊、即ち、悪霊である。
 私は経営者に差異があれば、差異共振性を企業に取り込んで、同一性を限界づけることは可能であるのではないかと思う。差異は企業にとっては、オーラのようなものになるだろう。同一性資本主義ではなく、差異資本主義である。例えば、自動車産業であれば、環境という身体・差異を取り込んで、環境再生への志向をもつ場合があるだろう。これは、現実化しているが、結局、環境という身体・差異が問題になるというのは、情報や知識が圧力になっていることである。だから、同一性を有限化するのは、企業では、公的な情報や知識である。そして、それを強く訴える国民の声であり、政治の力である。
 だから、自動車産業を例に出したが、物欲・金銭欲を有限化するには、身体・差異としての公的な情報・知識や政治力が必要であるということになる。
 インテリジェンスが身体・差異となるのである。すると、メディアや教育がますます重要になってくる。そして、基本は哲学である。哲学によって、先ず、差異が発生するからである。哲学のもつ自己探求とは、自己の差異への探求であるからだ。ということで、同一性の有限化は、インテリジェンスによってもたらされることとなった。しかし、ながら、そのインテリジェンスは、単に同一性であってはならない、身体をもったインテリジェンス、特異性に基づくインテリジェンスでなくてはならない。今はここで留めたい。後で、再検討したい。