輪廻転生について、又は、Media Point的阿頼耶識(あらやしき)につ

輪廻転生について、又は、Media Point的阿頼耶識(あらやしき)について:新輪廻転生仮説


テーマ:新輪廻転生論


輪廻転生について、又は、Media Point的阿頼耶識(あらやしき)について:新輪廻転生仮説
テーマ:メディア・ポイントMedia Point
Media Pointにおいて、超越論的同一性構造が形成される。これがフッサールの超越論的主観性の字義通りの意味である。(もっとも、フッサールは、実質では、超越性に達していた。)
 このMedia Pointにおける超越論的同一性構造(以下、超同構造)が同一性=物質現象界を発現させていると考えられる。可視界とは、この超同構造が現出させているのである。だから、カントは正しい。(ただし、主観性というよりも、ハイデガーのように存在においてと考えるべきである。もっとも、正しくは、Media Pointにおいてであるが。)「物自体」は超同構造に基づく限り、認識できない。
 物質とは、当然、「物自体」ではない。それは超同構造が把捉した現象に過ぎない。
 では、「物自体」とは何か。それは、端的にMedia Pointだと思う。世界、宇宙の「物自体」、本体、真如(しんにょ)とは、Media Pointである。汎Media Pointである。【だから、前ソクラテス期のタレスが、大気は神々に満ちていると言ったのは、正鵠を射ている。神々は、諸Media Pointsないしは、多Media Points、ないしは、Poly Media Points or Multi-Media Pointsである。だから、多神教の方が、一神教よりも、現象的には、正しいのである。一神教は唯一のMedia Point, the One Media Point, the Only Media Pointを説くことになるが、それは、イデア界としての即非差異としては言えるかもしれないが、それはMedia Pointではなくなる。だから、超越界の即非差異を唯一神、そして、Media Pointを神々とすることは可能であろう。しかし、私の考えでは、唯一神とは、Media Pointを指しているので、多神教的である。D. H. ロレンスは、瞠目すべきことに、聖書の神は多神教的であると自信に満ちて唱えている。考えれば、ヤハウェとエローヒーム(神の複数)が存しているのである。だから、聖書の神とは、Media Pointの神々ではないだろうか。これは、ギリシア神話多神教に通じるのではないだろうか。当然、八百万の神々にも通じよう。(p.s. だから、一神教において、混乱があるだろう。唯一神とは、本来、超越界の超越的即非差異であり、本来、静態的であるが、即非差異の中間に空虚をもつために、動態化すると私は考えている。しかし、聖書の神は、Media Point的なエネルゲイアの神である。それは、多神教でなくてはならない。つまり、一神教とは、超原点においては、正しいだろうが、エネルゲイアである Media Pointにおいては、誤りである。多神教的でなくてはならない。脱一神教化が必要である。そう、私は、以前から、ポスト・キリスト教西洋文明を唱えている。)】
 おそらく、諸Media Pointsが森羅万象、万有を満たしているのであり、単体において、一つのMedia Pointないしは複合したMedia Pointを知覚・認知しているのである。しかし、Media Pointに内在する超同構造によって物質現象が生起して、真実在、本体、真如、即ち、Media Point「宇宙」本体を認識できないのである。(もっとも、今日、天体観測技術の向上によって、宇宙の穴が発見されていて、それが、宇宙のMedia Pointであると想定できるのである。)
 物理学で言うと、量子力学あh,まだ、物質主義に囚われていて、量子の本体を捉え損ねていると考えられる。量子とは、素粒子とは、Media Pointの様相ないしは様態である。超・量子としてのMedia Pointである。(PS理論は、Media Point現象学とも呼べよう。)
 では、本論に入ろう。阿頼耶識(あらやしき)、並びに、輪廻転生とは何か。阿頼耶識とは、端的に、Media Point様相と言えるのではないだろうか。もし、阿頼耶識=Media Pointとするなら、Media Pointの記録・記憶性はどう説明できるのだろうか。(プラトンの想起説を思い出す。キルケゴールハイデガーは反復説である。オカルティズムでは、アカシャ年代記Akashic recordsに相当する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 )思うに、現象(界)は、Media Pointと他のMedia Pointとの交信によって生成消滅している。おそらく両者から電磁波等が発出されて、相互形成する。超同構造の光と別の超同構造の光との交信で、知覚・認知が生じる。問題は、超同構造におる感受性・感応性である。言い換えると、感覚とは何かである。それは物質に関係した同一性の感覚、光の感覚である。しかし、不可視の差異・身体がある。あるいは、端的に、Media Pointの発信する超・量子がある。光/闇の超・量子である。思うに、総体では、Media Pointは同一性を知覚・認知するだけでなく、光/闇の超・量子を「感受」している。意識と無意識と言ってもいい。
 具体的に考えよう。あるMedia Pointが、超同構造による同一性主義の自我によって、「悪」を他者にはたらくとしよう。このとき、自我と結びついている超同構造はMedia Pointのもつ即非差異共振様相を阻害、「傷つけて」いると言えよう。Media Pointの根本・普遍的な即非差異共振調和様相に対して、否定相が刻印されると考えられる。このような事態が阿頼耶識と共通することではないだろうか。ここでは、同一性中心主義(自我主義・利己主義)的な害悪を、Media Pointに印刻しているのである。その事象は無意識に形成される。これが業熟(カルマ)となると考えられるのである。あるMedia Pointの同一性=物質身体(肉体)が消滅しても、Media Pointは不滅であると思われる。時を経て(ハイデガーの用語を転義して使用すれば、時熟して)、Media Pointが新生・復活する。輪廻転生である。そのとき、過去世(過去生、前世)のMedia Pointの記録・記憶・「アーカイブ」・「情報」・蓄積が作動する。過去の借り、「負債」を支払うのである。
 では、どうして、「死」の様態で学ぶことができるのか。それは、死んだとき、Media Pointは超同構造を消滅させて、Media Point本体へと縮減・復帰する。そして、Media Point本体の意識(現世においては、無意識であった)が活動して、生存中、作った否定的刻印・蓄積を認識すると思う。即非差異共振調和という普遍的価値基準から、己の現象界(現世)における諸行為が吟味される。そして、「裁判」され、「判決」をされる。このMedia Point本体における「裁決」(自己裁決)による知・情報が来世へともたらされるということになると考えられる。こう考えると、Media Point的輪廻転生論は、仏教を超えている。仏教は輪廻転生から解脱(げだつ)を説くからである。
 ということで、今のところは、これで新輪廻転生仮説を提示したこととしたい。

参考1:
過去生の記憶
「生きがい」の夜明け

生まれ変わりに関する科学的研究の発展が人生観に与える影響について

飯田史彦(福島大学経済学部助教授)

商学論集第64巻第1号1995年9月より「はじめに」と「おわりに」を掲載し、本文については見出し部分を掲載したものである。


はじめに

私は、人事管理論を専攻する関係から、人間の「働きがい」や「生きがい」と呼ばれるもの、あるいは「幸せ感」について考えることが少なくない。とりわけ、最近では、各地で、「生きがいのマネジメント」というテーマで話をして欲しいと依頼されることが増えており、この命題の重要性がますます強まりつつあることを痛感している。

元来、私は「組織文化」すなわち「構成員に共有されている価値観」の研究者であるため、経営学の枠組みの中で、価値観の転換による働きがいの向上という観点から考察を進めてきた。つまり、「人間の価値観」をキーワードに、企業組織の革新を、経営者や上司による、一種の「望ましいマインド・コントロール」としてとらえてみたのである。

ところが、その研究過程で私は、経営者や管理職の方々が、ある共通した問題意識を抱いていることを発見した。それは、「労働意欲を高める様々な方法を実施してみたが、どれも表面的な技法にすぎないため、せいぜい、従業員に仕事が好きになったと錯覚させただけではなかったのか」という危惧である。そのため、彼らは、何らかの方法で従業員の価値観を深層から揺さぶり、既存の思考の枠組みを根底から覆すことによって、単なる働きがいの向上に留まらない本質的な変化を生じさせたいと模索しているのであった。

そこで私は、ある個人的体験を契機に知った待殊な情報について、試みに、各所でそれとなく話をしてみることにした。その結果、その情報を伝えた人々が、目を丸くし、時には涙を浮かべながら、真剣に聞き入ってくれることを発見した。ある経営者は、「それこそが私の求めていたものです。私は間違っていました。社員に何をしてもらえるかではなく、社員に何をしてやれるかという、すっかり忘れていた問題意識がよみがえってきました」とうなづいた。また、ある管理職は「ぜひ、部下ばかりでなく家族や知人にも教えてあげたい」と目を輝かせ、ある学生は、「これで何も怖くなくなりましたしこれからは下宿に帰って一人きりでいても、寂しくありません」と喜ぶのであった。

その特殊な情報とは、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する遠年の科学的研究成果の内容であった。私は、人々にその情報を伝えることによって生じる効果の、あまりの大きさに驚いた。その情報を、ただ聞き手の先入観をなくしながら正しく伝えるだけで、人々は、職場における働きがいの意味をはるかに超えた、人生全体の「生きがい」や「幸せ」の意味について、根本的に自問し始めるのである。それまで、いかなる価値観変革の技法を駆使しても頑として揺るがなかった各人の自我が、劇的に固い殻を脱ぎ捨ててゆく光景を目前にするたび、私はそこに何か偉大なカの介在を感じないではいられなかった。

http://www.osoushiki-plaza.com/anoyo/takai/takai3.html


参考2:輪廻転生google
http://www.google.co.jp/search?num=50&hl=ja&q=%E8%BC%AA%E5%BB%BB%E8%BB%A2%E7%94%9F&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=