プラトンの『国家』の第10巻の「エルの物語」:プラトンの輪廻転生

プラトンの『国家』の第10巻の「エルの物語」:プラトンの輪廻転生説


テーマ:新輪廻転生仮説


「エルの物語」は、今で言う臨死体験ないしは幽体離脱体験の話である。それは、戦死したと考えられたエルの「死体」を荼毘に付そうとしとき、甦って、あの世で体験したことを述べたものである。たいへん興味深いが、なにか独特の不思議さ、謎めきがある。とまれ、臨死体験してエルが行った場所は、天地・生死の中間点・交叉点であり、プラトニック・シナジー理論のMedia Pointに相当する可能性があると思った。以下、簡単に引用したい。

「彼[エル]が語ったのは、次のようなことであった。---彼の魂は、身体を離れたのち、他の多くの魂とともに道を進んで行って、やがてある霊妙不思議な場所に到着した。そこには大地に二つの穴が相並んで口をあけ、上のほうにもこれと向い合って、天に別の二つの穴があいていた(図1)。
 これらの天の穴と地の穴とのあいだに、裁判官たちが座っていた。彼らは、そこへやってくる者をつぎつぎと裁いては判決をくだしたのち、正しい人々に対しては、その判決の内容を示す印しを前につけたうえで、右側の、天を通って上に向かう道を行くように命じ、不正な人々に対しては、これもまたそれまでおかしたすべての所業を示す印しをうしろについてけ、左側の下へ向かう道を行くように命じていた。
 エル自身がそこへ近づいて行くと、彼らは、お前は死後の世界のことを人間たちに報告する者とならなければならぬから、ここで行なわれることをすべて残らずよく見聞きするように、と言った。
 そこで彼は、一方において、魂たちが判決を受けてのち、天の穴と地の穴のそれぞれ一つの口から、そこを立ち去って行くのを見た。別の二つの穴のところでは、地の穴のほうからは、汚(よご)れと埃(ほこり)にまみれた魂たちが大地のなかから上ってきたし、天の穴のほうからは、別の魂たちが浄らかな姿で天から降りてくるのであった。
 こうしてつぎつぎと到着する魂たちは、長い旅路からやっと帰ってきたような様子に見え、うれしそうに牧場へ行き、ちょうど祭典に人が集まるときのように、そこに屯(たむろ)した。知合いの者どうしは互いに挨拶をかわし、大地のなかからやってきた魂は、別の魂たちに天上のことをたずね、天からやってきた魂は、もう一方の魂たちが経験したことをたずねるのであった。こうしてそれぞれの物語がとりかわされたが、そのさい一方の魂たちは、地下の旅路において- --それは千年つづくのであったが---自分たちがどのような恐ろしいことをどれだけたくさん受けなければならなかったか、目にしなければならなかったかを思い出しては、悲しみの涙にくれていたし、他方、天からやってきた魂たちは、数々のよろこばしい幸福と、はかり知れぬほど美しい観物(みもの)のことを物語った。」『国家』(下)pp. 355〜357 藤沢令夫訳 岩波文庫 (なお、文字の着色は、renshiによる)

      天

○            ○
|            |
↓          上へ↑
ーーー裁判官たちの席ーーーー
↓            ↑
|下へ          |
○            ○

      地    
 
   
      図1

(なお、図1は、岩波文庫のものではなく、中央公論社の「世界の名著」からのものである。文面からは、岩波文庫の方が明快かもしれないが、図としての中央公論社のものの方がわかりやすい。また、天と地という語をrenshiが挿入した。)


コメント:以上、四つの穴が提起されている。最初の二つの穴は、天と地への往路であり、次の二つの穴は、天と地からの復路である。赤色の矢印部分が往路であり、青色の矢印部分が往路となる。
 ここで、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)を適用すると、この天と地との交叉点は、当然、Media Pointと考えられる。言い換えると、裁判官たちの席がMedia Pointである。
 ここで、ガウス平面を適用するが、混乱するおそれがあるが、天に当たるのは、虚軸であり、地に当たるのは、実軸であると考えられる。天が+の虚軸で、地が−の虚軸ではないだろう。
 次に、往路を考えると、天への往路とはMedia Point(以下、MP)から虚軸への移動であり、地への往路とはMPから実軸への移動と考えれるだろう。
 では、復路を考えると、天からの復路とは虚軸からMPへの移動であり、地からの復路とは実軸からMPへの移動であろう。
 ここで、二つに分けると、一つは、地からの復路と天への往路を結びつけた移動であり、他の一つは、天からの復路と地への往路を結びつけた移動である。前者は地から天への移動であり、後者は天から地への移動である。換言すると、前者は実軸から虚軸への1/4回転であり、後者は虚軸から実軸への1/4回転である。
 そう考えると、結局、「エルの物語」は、Media Pointを中心とする輪廻転生の物語ということになるだろう。特に問題になるのが、実軸から虚軸への1/4回転である。これは、生から死へであるが、思うに、-1と+1の極性があるが、例えば、前者の否定相を強くもち、後者の肯定相が弱いとそれが、カルマになるのではないだろうか。傾斜である。否定相とは端的に利己主義であり、肯定相とは共振主義である。
 とまれ、結局、天である虚軸が高次元であり、天国である。そして、地である実軸は、修羅場であろう。そして、Media Pointが判決の場であるが、それは、ある「魂」には地獄となるのではないだろうか。
 さて、問題は、天と地とのそれぞれ二つの穴である。天への往路の穴は、実軸から虚軸への1/4回転で発生する穴であり、天からの復路の穴は、虚軸から実軸への1/4回転で発生する穴と言えるのではないだろうか。
 そして、地への往路の穴は、虚軸から実軸への1/4回転で、地からの復路の穴は、実軸から虚軸への1/4回転で生じるのではないか。
 そして、虚軸から実軸への1/4回転の場合、天から地への移動が生じるが、Media Pointにおいて、二つの穴が生じるということになるのではないだろうか。つまり、虚軸的MPの穴と実軸的MPの穴である。また、実軸から虚軸への1/4回転における地から天への移動でるが、そこで生じるMedia Pointの二つの穴であるが、それは、実軸的MPの穴と虚軸的MPの穴であるが、それらは、天から地への移動のとき生起する穴とは異なるということになるのではないのか。
 つまり、天から地への移動の場合、虚軸から1/4回転である。そして、地から天への移動の場合、実軸から1/4回転である。つまり、両者において、1/4回転のズレ・差異・「差延」があるということである。つまり、後者の地から天への移動は、1/4サイクルのズレがある位相であるということになる。だから、同じ、虚軸的MPの穴でも、1/4回転の穴と2/4回転の穴の二種類あるということになるだろう。これが、「エルの物語」の天と地の計四つの穴の解明である。後でさらに検討したい。


p.s. (2k-1)/4回転と2k/4回転の違いである。


p.p.s. その他の箇所も興味深い。天地を貫く宇宙軸があるが、それは、一見、虚軸に思えるが、そうではなくて、虚軸-実軸であろう。p.sのところで提起したものは、前者が生への変換で、後者が死への変換である。問題は、2/4回転における死への変換であるが、それは、-1が-iとなり、+1が+i となる。これは、思うに、女性になるということではないだろうか。つまり、女性の遺伝子をもつことではないか。そして、3/4回転で、生へと変換して、女性として生まれるということではないのか。1/4回転は男性である。シュタイナーは、人間は、男性と女性の両方に生まれ変わると言っていた。これで説明できるのだろうか。
 とまれ、iが元男性性=元知性=元形相であり、-iが元女性性=元身体=元質料ではないだろうか。 
 後で、もう少し、「エルの物語」について考えたい。


3p.s. ひょっとしたら、以上の解釈は間違っているかもしれない。天がiで、地が-iかもしれない。そうすると、四つの穴とは、天=iへ往復路で二つの穴であり、地=-iへの往復路で二つの穴ということになる。後で、この線で考えたい。(天=+iが天国であり、地=-iが地獄となるだろう。では、地上はどうなるのか。「エルの物語」は、Media Pointから正負の虚軸世界の話かもしれない。)


4p.s. やはり、以上の解釈でいいと思う。ところで、自己認識方程式(+1)*(-i)⇒+1であるが、虚軸から1/4回転すると、-1と+1の実軸が生起する。-1が同一性で、+1が差異(差異共振性)ではないだろうか。-1が自我であり、+1が自己である。そう、パラドクシカルなことは、-1は光になり、+1が闇になることである。可視界と不可視界である。「モダン」と「ポスト・モダン」である。両者を即非化したところに、「トランス・モダン」が形成されると考えられないだろうか。
 否、以上は間違いだ。-1には、iが優位の場合と-iが優位の場合がある。前者が「モダン」であり、後者が「ポスト・モダン」である。両者ともに闇なのである。iと-iを即非化したとき、⇒+1の「トランス・モダン」が形成されるのである。
 問題は、「モダン」の「光」は闇であることである。そして、「ポスト・モダン」の闇は確かに闇である(ハイデガーの存在は闇だろう)。「トランス・モダン」だけが、真正の光である。


5p.s. 4p.s.で提起した光と闇の問題は、興味深い。超越論的同一性が「光」であるが、事実は闇である。つまり、これまで、同一性=光と考えたが、-1の闇となる。この齟齬をどう解決するのか。ここは微妙である。i→(-i)⇒-1であるが、これは正確には同一性ではなくて、同一性中心主義である。だから、闇なのである。自我ではなくて、自我中心主義・エゴイズムである。
 そのように考えれば、齟齬は生じない。同一性中心主義=闇=無明と同一性=光=知性は微妙に異なる。しかしながら、問題は超越論的同一性構造にある。これが、同一性中心主義を生み出すのである。闇の中に光はあるが、暗い光である。他方、i←(-i)⇒-1で、これは、身体的同一性中心主義の闇、神秘主義の闇、差異中心主義の闇である。ポスト・モダンの闇と言えるだろう。
 言わば、白い闇と黒い闇である。近代主義と反近代主義である。これを形成する支点である超越論的同一性構造から脱却しないといけない。差異を不連続化して、超越性に達することである。そして、それが即非差異へと熟するのを待つのである。そして、Media Pointの開示が生起する。これは、いわば、器ではないだろうか。超越的差異を受ける器、受容器ではないだろうか。聖杯のことではないだろうか。仏教で言えば、阿弥陀如来を受容する信心ではないだろうか。あるいは、プラトンのコーラではないだろうか。魂を受ける容器である。魂は超越的差異である。水瓶座の水瓶・宝瓶ではないだろうか。超越的差異とMedia Point、この関係は微妙・霊妙である。
 神秘学や神学のソフィア(叡智)とは、この器のことではないだろか。Media Pointという聖杯にある魂が超越的差異である。この点は後で考察しよう。
 さて、主題にもどると、Media Pointの形成によって、二つの闇が解消して、真光となる。同一性と差異が共立・共振・共鳴・共生・共存するのである。同一性の光と差異の超光が共振するのではないだろうか。光と超光の共立、これが真光ではないか。闇が光となり、闇が超光となる。超越光と現象光の共立である。思うに、それは、一如になっているのではないだろうか。背景の超越光と前面の現象光が一如なのではないだろうか。共振であろう。超越光と現象光の共振光であろう。


6p.s. Media Pointとは、いわば、超越界と現象界の究極の境界である。超越界であるが、ほとんど現象界である。オカルティズム等でいうエーテル体(気の身体)ないしは、チャクラが生じるのではないだろうか。チャクラは、確かに、Media Point的である。超越的差異があり、超越的共振があり、境界的身体がある。そして、物質身体=肉体が形成される。【超越的差異(元志向性)、超越的共振(精神的感情)、水平的共振身体(エーテル体、気的身体)、同一性身体=物質身体(肉体)】思うに、超越光と現象光は一如というか、一つではないのか。超越光がMedia Pointを介して現象光になると考えられる。Media Pointの視覚があれば、現象光と同時に超越光も視ることができるだろう。超越光とは、以前、Idea-sophia lightと呼んだものだ。
 光子は、ほとんど超越光であろう。量子力学唯物論的制約を取り払えば、光子は超越光そのものであろう。超光子である。 
 ごちゃごちゃしたので、後で整理しよう。