実存性について:本質存在と事実存在(実存):超越的差異⇔超越論的

実存性について:本質存在と事実存在(実存):超越的差異⇔超越論的差異⇔超越論的同一性構造⇔同一性


テーマ:哲学


『コンサイス20世紀思想事典』から実存主義の項を見て、木田元氏の説明によって、そのポイントがわかったというか、思い出した。
 極言すると、普遍論争に近いと言えよう。実念論唯名論の問題と平行するのである。観念とこれ性との関係であり、実存主義とは、後者の様態を主導的にしたのである。
 では、構造主義/ポスト・モダンとの関係はどうだろうか。実存主義を特異性と関係させることができるならば、実存主義の問題は、やはり、ポスト・モダンに吸収されて引き継がれたと言うべきように思う。
 ただ、実存主義は、超越論的構造が強く、自我情態性の反動と特異性が結びついていたのではないだろうか(p.s.  これでは、構造主義との区別ができない。というのは、構造主義は超越論的構造と結びついているからだ。正しく説明するなら、実存主義は超越論的構造に無意識的に支配されているが、構造主義はそれを客観化したので、それを意識化して、脱却しているということになる。この点が実存主義構造主義を峻別する決定的な契機である。)。言い換えると、超越論的構造によって、差異を否定し、同一性を形成するが、同時に、差異がそれに反発している。差異と同一性とのパラドクシカルな様態が実存性であったと言えるのではないだろうか。先に、パラドクシカルな同一性構造と言ったものの様態である。図式化する。

実存性:差異⇔超越論的同一性構造⇔同一性(自我)

問題は、超越論的差異と差異との関係である。端的に、実存主義の差異とは、超越論的差異だと思う。だから、図式は次のようになる。

実存性:超越論的差異⇔超越論的同一性構造⇔同一性(自我)

である。これは、ハイデガーの現存在と同じである。ただ、サルトルの場合は、同一性の情態性が主導的であった点が違うと思う。先に言った自我情態現象性である。
 では、実存主義構造主義とポスト・モダンはどう関係するのか。構造主義は、超越論的同一性構造を客観形式化したものであり、この点で、自我情態現象性からは脱却できたが、倫理・道徳性が消えてしまった。では、ポスト・モダンは、デリダ差延脱構築主義で、超越論的差異から脱却を図ったが、戦略的に留まった。ドゥルーズは、ガタリとのコラボレーションによって、超越論的差異からの脱却を図り、一部成功したと思う。リゾームはそのようなものだし、存立平面の発想は、差異共振性を含んでいるからである。
 しかし、ドゥルーズガタリは、真に超越的差異すなわちMedia Pointには達していない。一部、超越的差異はあったが、超越論的同一性構造が中心となり、同一性と混同化され、連続的差異=微分を中心にしてしまった。
 では、実存主義とポスト・モダンはどう関係するのか。ここで、もう一度、実存性を訂正しよう。それは、キルケゴールの単独性の実存性を考慮してのことである。

実存性:1.超越的差異⇔2.超越論的差異⇔3.超越論的同一性構造⇔4.同一性(自我)

ハイデガー哲学は、2〜4である。フッサール現象学は、1〜2である。(フッサールの意味の現象学は、ハイデガー哲学には当てはまらない。ハイデガー現象学ではなく、ハイデガー存在論と言うべきだ。)ポスト・モダン哲学は、1〜3である。つまり、広義の実存主義は、現象学構造主義やポスト・モダンとの関連性をもっていると言えよう。ただし、3の構造主義による切断がないため、きわめて、混淆的な思想であったと言えよう。鋭いがあいまいな思想であった。実存性は、諸契機が混淆したあいまいな概念である。
 ついでに、ポスト・モダンについて言うと、それは、1と2を切断できなかった不明瞭な「ポスト構造主義」であった。不連続的差異論がこれを切断したのである。
 これで、整合的な解明ができたことしたい。


補足:
実存性の図式を補足説明すると、1の超越的差異は、Media Pointの位置にある。おおまかには、超越的差異とMedia Pointは同じと考えていいが、実際は異なる。超越的差異は虚存在であり、Media Pointは虚存在と実存在の交叉点である。だから、1と2との境界にあるのだが、即非的な境界である。ドゥルーズガタリは、領域的には、1と2との中間態にあるが、Media Pointの即非的境界の概念に達していないことに注意しないといけない。また、メルロ=ポンティは、「肉」(私は「身」と呼びたい)の現象学で Media Pointの概念に近づいたと思われる。