Media Pointから形成される同一性構造について:差異と同一性の力学

Media Pointから形成される同一性構造について:差異と同一性の力学構造の考察


テーマ:差異と同一性


私は自分の経験から、本件を考えるのであるが、青年期において、世界との一体感が喪失されて、「私」と世界が乖離・分離して、世界が客観的対象となる喪失的経験を味わったが、それに関しては、これまで同一性構造から説明されていたが、なにかそのメカニズムにおいて、不明な点が感じられるので、ここで、新たに考察を試みる次第である。
 前青年期の世界との一体感とは、何だろうか。それは、Media Pointにおける垂直的共振性(超越的即非差異)のもたらす精神性が外界へと反映・投影されることによって形成されたものだろう。つまり、同一性=自我構造が全面化する以前の、Media Pointの垂直的共振性のエネルゲイアのもたらすものではないかと思われる。
 つまり、同一性=自我構造が完成される以前において、Media Pointは、垂直的共振性を帯びているということである。つまり、一方(内界的側面・裏面)では、垂直的差異共振性があり、他方(外界的側面・表面)では、同一性志向性があるということで、両者が混淆している様態にあるということである。幼児・少年・未成年の精神様態である。
 しかし、青年から成年へかけて、同一性=自我構造が全面化し、それまで現存していて、垂直的共振性が否定・排除・隠蔽・閉鎖・閉塞されることになる。
 簡単に言えば、垂直的共振性=差異であり、差異を否定して、同一性=自我構造が主導的になり、同一性を優位、差異を劣位とした2項対立構造(二元論)が形成されるということである。これは、攻撃的な同一性中心主義であり、差異を、いわば、迫害するのである。(参照:魔女狩りキリスト教原理主義善悪二元論
 私の経験に返ると、世界との一体感を否定して、世界を同一性=自我=言語化する近代合理主義が形成され出したということだろう。しかし、より正確に言うと、否定というよりは、喪失である。掛け替えのない前成年的世界観の喪失である。
 これをどう見るのか。思うに、ここは、微妙な事象である。Media Pointを丁寧に見よう。そこにおいて、自然発生的に、垂直的共振性と水平的連続的同一性が生起する。この両者の関係が問題なのである。Media Pointとは、差異の不連続性と連続性との交叉様態を呈している。私がいう世界との一体感とは、正に、この交叉様態ではないだろうか。つまり、不連続性とは、垂直的共振性であり、これは、本来、同一性とは関係していない。しかし、Media Pointにおいて、連続性と交叉するので、同一性に関与するのである。この接点、差異の不連続性と連続性との接点において、世界との一体感が形成されると言えよう。(作家、詩人の言うコスモスとは、このことだろう。)
 同一性=自我構造が全面化される以前におけるMedia Pointは、そのような世界との一体感を発現(発様という語を造語したいが)させるということになる。それから、同一性=自我構造が駆動されて、この接点が喪失されるということだろう。これで、世界との一体感の喪失が説明できるだろう。換言すると、コスモスの喪失である。歴史的には、近代科学の誕生において発現したコスモスの崩壊と等価と言えよう。
 この喪失=否定をさらに精緻に分析したいのである。不連続性と連続性の交叉があるが、連続性が主導化する。そのとき、連続性は、Media Pointの穴・空・間隙を埋めるように作用する。不連続性と連続性の交叉においてある穴を埋める、「塗装」するのである。この連続性の作用において、当然、既述した通り、不連続性は否定・排除・隠蔽される。連続化は、必然的に、不連続性の否定である。一つの力であり、暴力である。(おそらく、連続化のエネルギーを想定していいだろう。放出されたエネルギーは、不連続性のエネルギーではないだろうか。それとも、連続化によるエネルギーということなのだろうか。思うに、不連続性のエネルギーと言えるのではないだろうか。そうならば、不連続性を犠牲にして、連続化が発現する。同一性=自我=物質構造とは、不連続性・垂直性・共振性を犠牲にした連続的エネルギーをもつと言えるのではないだろうか。この点は後で再検討したい。)
 とまれ、不連続性、垂直的共振性を否定した同一性=自我(=物質)構造が形成される。これは、三次元空間形式をもたらすと言えよう。これは、歴史的には、遠近法の形成を意味する。垂直性を喪失して、距離を生んだと言えるのではないだろうか。これまで、「私」と山は一体感があったので、距離は無かったのである。これは、虚軸的現象である。しかし、垂直性の喪失によって、「私」と山に間隔が生じたのである。遠近が生じたのである。マイナスの実軸の方向である。だから、思うに、近代化とは、マイナスの実軸、即ち、-1の世界の形成を意味すると思う。(そして、既述したが、反近代主義は、垂直的反動であり、やはり、-1を意味する。なぜなら、連続性を否定するからである。本来は、不連続性と連続性の交叉のMedia Pointがあるからである。)
 同一性=自我=物質構造が近代合理主義を形成したが、それに対して、差異が回帰するときに、これまで、諸々の思想・文化等が生まれた。例えば、ポスト・モダンは、端的に、差異への回帰を志向したが、問題は、同一性=自我=物質構造の乗り越えにある。一端、同一性構造が発現すると、それ以前、不連続性と連続性の交叉性は、同一性構造の、いわば、彼岸に潜在していることになるのである。この彼岸性が重要なポイントである。つまり、同一性構造を超越したところに、不連続性と連続性との交叉性、初期のMedia Pointが潜在しているのである。だから、内在論では、それは不可能である。(ドゥルーズ哲学は内在論なので、Media Pointに達することができなかった。)やはり、フッサール現象学的還元が必須であったのである。(ハイデガーは、それを看過して、現象学そして哲学全体を混乱させた。)
 ここで、差異から同一性への不可逆的な段階を確認しないといけない。図式化すると、

1.不連続性と連続性の交叉(共振)⇒2.同一性=自我=物質構造

という不可逆的過程がある。ポスト・モダンは、2から1へと回帰しようとしたが、それは、反動であった。左から右へとは移行するが、右から左へは移行できないのである。より精緻に見よう。
 近代主義からの脱出とは何を意味しているのだろうか。何が同一性から差異へと志向させるのか。それは、端的に、潜在している垂直的共振性、不連続性と連続性の交叉(共振)性が、蠢動していることから来るのではないかと思われる。
 では、同一性構造とその蠢動の関係を見てみよう。連続化によって、同一性構造が発生する。同時に、差異が否定・排除・隠蔽される。ここにおいて、上述したように、同一性が優位となり、差異が劣位となっている。これは、二項対立暴力である。自我が他者に対して、優位となる暴力である。これは、意味ではなくて、形式的暴力、機械的暴力、自然的暴力である。ここで否定される差異であるが、それは、垂直的共振性であり、不連続性と連続性との交叉(共振)性である。差異のエネルゲイアが同一性の暴力になっているとも言えよう。
 とまれ、否定された差異(垂直的共振性、不連続性と連続性の交叉)自体であるが、それは否定する同一性=自我=物質的合理性構造とどう関係しているのだろうか。差異は潜在しているとしていいのであろうか。何故なら、同一性は差異を否定する構造であるから、差異がなければ、同一性構造は成立しないと考えられるからである。
 思うに、差異は現前したままであるが、否定によって無意識化されるのではないだろうか。それが、もし潜在していると言うならば、潜在の意味ではないだろうか。同一性=自我=物質合理主義にとって、差異は否定されるが、否定された差異は無意識化されるが、現前したままではないだろうか。だから、同一性=自我意識にとって、差異が他者として現前すると、それを否定し、差別するのではないだろうか。たとえば、白人が有色人種を差別するというのは、そういうことではないのか。いわば、内なる否定された差異・他者が潜在的に現前しているので、差別するということではないだろうか。
 では、この差異の賦活・蠢動・活性化と私が考えているものは何だろうか。少なくとも、私自身の経験においてはそれは発現したのである。身体内において、自我意識を測深させて、差異を感じ取ることができる。しかし、自我意識は、連続性に支配されている。つまり、差異へと測深させても、一般には、連続性が主導的になるので、真の差異へとは達することができないと言えよう。つまり、言い換えると、不連続性(不連続的差異)へは到達しないのである。(この事態が、ドゥルーズ哲学の意味である。また、デリダは、同一性からの脱却を説くが、自ら、不連続性への可能性を閉ざしてしまった。差延は、単に非同一性である。)
 言い換えると、連続性の壁が、差異、不連続性(不連続的差異)を閉ざしているのである。(だから、ドゥルーズの差異は連続的差異=微分にしかならなかったのである。)
 結局、問題は、連続化=現象化=可視化の力学とは何かである。そのメカニズムは何か。何がそれを駆動させているのか。不連続性と連続性の交叉・共振でどうして留まらずに、連続性・同一性が発生するのか。言い換えると、どうして、現象=自我=物質化が発生するのか。(悪魔化でもある。)
 もし、不連続性と連続性の交叉・共振性に留まれば、自我はないし、物質もないし、現象もない。ただ、揺らぎだけである。差異の「ブラウン運動」である。あるいは、クリナーメンである。
 この問題は以前は、同一性傾斜ということを考えて一応解決した。Media Pointにおいて、同一性傾斜が発動するということである。この傾斜とは1/4回転に拠るのではないだろうか。垂直軸・虚軸から1/4回転して、水平軸・実軸へと変換する。そうならば、さらに1/4回転して、垂直軸・虚軸へと回帰するということになるのではないだろうか。もっとも、この場合は正反対の位置になるが(思うに、2/4回転した差異は、逆差異とでも呼べるのではないだろうか。そうすると、差異ないしはイデアは基本的に二種類ある。正差異と負差異とでも呼べよう。±差異である。)
 そのような周期を考えると、私が呼ぶ差異の賦活・蠢動・活性化は考えられる。それは、2/4回転に拠るのである。それは、同一性を解体するだろう。だから、一種のニヒリズムである。差異と同一性の交替反復が生起する。これは不連続的である。
 とまれ、差異の賦活に対して、同一性は否定的に作用する。同一性意識は差異を認識できない。差異のエネルギーを否定して、塞止め、反動化すると言えよう。これが、パラノイア自己愛性人格障害である。
 なぜ、差異を意識化できないのか。それは、同一性は可視的な現象のみに関わっているからである。不可視の差異の「現象」は知覚できないのである。差異を認識するのは、訓練がいるのである。教養・文化とは本来そのようなものであったが、今日、崩壊している。
 では、差異を認識するとはどういうことなのか。同一性認識とは言語的知的認識であるが、差異認識とは何なのか。私は直感に基づいて、差異を考察しているが、それは確かに知的認識ではあるが、通常の同一性な知性の認識ではない。
 差異の知的認識とは何か。(叡知的認識とは言えるだろうが)それは、ヴィジョン的認識である。内的なヴィジョンを知的認識することである。つまり、虚界・超越界を認識しているのであろう。つまり、直感とは、虚界・超越界と通じているということである。言い換えると、Media Pointと通じているということである。だから、同一性=自我=物質現象に対する知的認識とはまったく異質である。
 では、端的に、差異認識とは何か。心の認識である。心的世界、心的現象の認識である。心象認識である。心が差異である。心の差異を同一性化するのが、差異認識であろう。
 近代合理主義は、心の差異を見ないで、同一性=自我=物質構造に支配された認識である。心の差異を見ようとしても、連続性に支配されているので、自我主義から脱却できないのである。(参照:漱石の『こころ』)もっとも、自我を否定することではなく、自我中心主義を否定して、自我の彼岸にある自己差異の世界を認識することなのである。
 では、どうして、自我の彼岸である自己を自我から認識できるのか。それは、自我(同一性)と自己(差異)とが共振しているからであろう。つまり、 Media Pointの垂直性と水平性の交叉・共振という基盤様相があるからである。この根本基盤様相において、同一性構造が形成され、また、差異が復権・復活するのである。(同一性構造形成エネルギーがあり、それが衰退して、差異が復権・復活するということかもしれない。)
 言い換えると、基盤において、Media Pointの叡知が存在しているのである。それを想起すること、それへ回帰することが、差異認識ということだと考えられる。Media Pointの叡知とは、大乗仏教の仏性であろう。しかしながら、阿頼耶識によって、制約されているので、悟りへとはなかなか向かわない。同一性構造による罪障が形成されて、それを来世で償うのである。とにかく、同一性=自我=物質構造とは恐ろしい構造であり、ここによって、悪・無明が生起するのである。
 しかしながら、この悪・無明とは、必要悪である。これが無ければ、知的認識はできないのである。自律の倫理・道徳も形成されないだろう。とまれ、現代・今日では、近代主義による同一性=自我=物質構造からの脱却が成し遂げなければならないのである。ポスト・モダンからトランス・モダンである。
 別稿で、同一性構造の力学、即ち、なぜ、Media Pointから同一性が発生する力学について緻密に理論化したい。


p.s. 「連続化と不連続化」

連続化が同一性化である。では、不連続化が生起するのではないか。連続化の極があり、不連続化の極があるのではないのか。
 言い換えると、両者の分化があるのではないのか。そうだろう。連続化=同一性化に対して、不連続化=差異共振化があるだろう。前者が-1であり、後者が+1である。

p.p.s. 連続化と不連続化の分化であるが、それは、結局、志向性の帰結ではないだろうか。(志向性をここでは、差異による他者の差異への志向性と考えるのである。だから、差異的志向性と呼べる。)この差異的志向性が、連続化と不連続化の二つの方向性をもっているのではないだろうか。だから、差異的志向性の帰結として、一方では連続化=同一性化があり、他方では不連続化=差異共振化があると考えられる。つまり、志向性の帰結の二重構造があるのである。そして、前者が後者を否定する様態にある(二項対立)が、否定される後者は、現前・潜在している。いわば、後者は透明化されている。
 連続化=同一性化=-1は自我意識となり、不連続化=差異共振化=+1は自己無意識となる。結局、両者が同時存在しているのであるが、一般には、前者が意識の中心なので、後者を忘却しているのである。
 しかしながら、両者ともにMedia Pointから賦活・「備給」されるので、活動しているのである。「差異」は常に活動しているのであり、意識の識閾を超えようとしているのである。自我意識は一般に頭脳中心であるが、自己無意識は心身的であるので、心的身体へと測深することで、自己無意識と自我意識とは接合しうるのである。ユング心理学はおおまかにこれを説いているが、この接合には、自我意識の連続性を超越する必要がある。つまり、自我意識とは不連続なものとして、自己無意識を認知する必要があるということである。
 思うに、フッサールはこの壁を突破したのであるが、同一性的合理主義に囚われていたので、差異の志向性を正確に把捉することができなかったと考えられる。

3p.s. まだ、不十分である。不連続化と連続化であるが、結局、根源は不連続化である。だから、連続化とは、不連続化によって賦活されているということではないだろうか。用語はまずい。不連続化ではなくて、不連続性であろう。不連続性と連続化があるのである。
 不連続性から連続化が発現するのである(現象化)。差異から同一性が発現するのである。根源は差異であり、差異の連続化が同一性であるが、差異の不連続性は残っている。つまり、連続化=同一性と不連続性=差異は同一ではないのか。差異の連続面が同一性であり、差異は不連続性として存しているということではないのか。
 コインの両面を考えるといいのではないか。表面が連続性=同一性であり、裏面が不連続性=差異である。これが1/4回転であろう。そして、この1/4回転に対して、バランスをとるために、差異へと回帰する。これが、さらなる1/4回転ではないのか。(この点は後で検討したい。)
 結局、差異が原動力であり、連続化に対して、反連続的回帰が発生するということではないだろうか。しかしながら、連続化は、自我意識であり、差異を否定するので、存在する原動力の差異(Media Point=エネルゲイア)を認識できないのである。
 結局、連続的同一性構造があり、それが、現前する差異から目を塞いでいるのである。言い換えると、差異自体が自己否定して、連続化=同一性化するのである。そう、喩えて言えば、連続化とは差異の盲点である。差異の盲点=連続化=同一性であろう。この盲点において、自己忘却があるのである。差異は差異でありつつ、自己を否定して、同一性化するのである。即非様態である。差異と同一性の即非様態である。いわば、光の盲点である。差異は闇となってしまう。差異こそ、超越光である。
 
4p.s. コメントも重要なので、ここに転載する。

■同一性=光とは差異=超光の「闇」化である

三島の「無」とD.H.ロレンスの「闇」を、この視点から考察したい。

プラトンの善のイデアは超光であり、同一性構造が洞窟である

プラトンの善のイデアとは、端的に、超越的差異の超光である。そして、洞窟内部では、同一性構造がある。同一性構造とは、差異の盲点であり、そこから、同一性という影=現象が認識される。超光の闇が影を見ていると言えようか。