バッハの神について:バッハの神はMedia Pointの神である証拠として

バッハの神について:バッハの神はMedia Pointの神である証拠としての対位法、ポリフォニー


テーマ:クラシックCD


先に、思いつき、直感で、バッハの神は母なる神、東洋の神、すなわち、Media Pointの神であると提起したが、ここで証拠になるものを考えたいと思う。
 バッハは、対位法、ポリフォニーの大家でもある。『フーガの技法』はその頂点であると言えよう。そして、バッハの対位法、ポリフォニーが、後の古典派、ロマン派音楽に影響を与えている。
 これは、文学理論的には、バフチン(参考2を参照)のいうカーニヴァル性につながる。因みに、バフチンが、ドストエフスキー文学をカーニヴァル文学、ポリフォニー文学であると発見したのは、文学領域では知られている。
 問題は対位法、ポリフォニーである。これは、簡単に言えば、Aという旋律に対して、Bという旋律を共振させる方法である。フーガの場合は、それを時間的にズラスのである。いわば、差延化である。
 このAとBの差異共振が、簡単に言えば、対位法、ポリフォニーであり、当然、プラトニック・シナジー理論から言えば、Media Pointにおける差異共振性であると言えるのである。
 先には、宗教的にバッハの神をMedia Pointの神と考えたのであるが、このように具体的に、大バッハの音楽の神をMedia Pointの神と証明することができるのである。
 これは、東洋の神というしかない。西洋音楽とは、対位法やポリフォニーにおいて、一神教的単線性を乗り越えたのである。つまり、音楽において、多神教化していたのである。ルネサンスからバロックにかけて、西洋音楽は、東洋化したのである。西洋と東洋の結婚がそこにはあると言えるのである。
 この西洋に内在する東洋が、現代の多様性・個性・多元性になっていると考えられるのである。
 ここで飛躍して、政治に関して言うと、自由・民主主義も同様である。一神教多神教とが混淆しているのが、今日の自由・民主主義である。大資本的自由・民主主義とは一神教的である。それに対して、国民的自由・民主主義とは多神教的なのである。
 政治における、一神教多神教の相剋があるのである。結局、根源のMedia Pointへと螺旋的に回帰・反転して、一即多の新多神教的自由・民主主義へと進展する必然性があると言えよう。
 何故なら、一神教主義は今日では、多様な自由への束縛になっているのであるから。脱一神教主義である。

 ★★★脱一神教/新多神教宣言!!!★★★


参考1:
ポリフォニー
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ポリフォニー(polyphony)とは、複数の異なる動きの声部(パート)が協和しあって進行する音楽 のこと。ただ一つの声部しかない「モノフォニー 」の対義語として、多声(部)音楽を意味する。

音楽史上では中世西洋音楽 期〜ルネサンス 期にかけてもっとも盛んに行われた。

ポリフォニーは独立した複数の声部からなる音楽であり、一つの旋律(声部)を複数の演奏単位(楽器や男声・女声のグループ別など)で奏する場合に生じる自然な「ずれ」による一時的な多声化は「ヘテロフォニー 」と呼んで区別する。

なお、西洋音楽では、複数の声部からなっていてもリズムが別の動きでなければポリフォニーとして扱わないことが多く、この意味で「対位法 」と重複する部分を持つ。

また、とりわけ西洋音楽において、複数の声部から成るが一つの旋律と和音伴奏に別れる「ホモフォニー 」の対義語としても使われる。ポリフォニーには「ホモフォニー」のような主旋律・伴奏といった区切りがなく、どの声部もほぼ同等の比重で絡み合う。ポリフォニーは各声部の旋律の流れに重点をおいており、和音や和声は従属的に生まれたものといえる(独立した旋律の集合体として作られるポリフォニーでは、和音は、各声部の旋律のその瞬間の一音が重なりあって一つの和音として聞こえると考えることが出来るため。)。

文学においては、ドストエフスキー の文学には強いポリフォニー性がある、という指摘がなされている。
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カテゴリ : 声楽 | 合唱 | 中世西洋音楽 | ルネサンス音楽



対位法
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対位法(たいいほう)(英counterpoint)とは、音楽理論 のひとつであり、複数の旋律 を、それぞれの独立性を保ちつつ互いによく調和させて重ね合わせる技法である。
概要

対位法は、和声法 と並んで西洋の音楽理論の根幹をなしている。ただし、和声法が主に楽曲に使われている個々の和音 の種類や、和音をいかに連結するか(声部の配置を含む和音進行)を問題にするのに対し、対位法は主に「いかに旋律を重ねるか」という観点から論じられる。
一例を挙げると、輪唱 の場合、和音の連続、つまり音と音の同時的なつながりの連鎖を意識して作られているというよりは、旋律を時間的にずらすこと、つまり音と音との経時的なつながりの堆積によって得られると考えるのが自然である。そこで輪唱は和声的ではなく対位法的な音楽であると言うことができる。
もっとも、和声法においても和音を連結する際に各声部の旋律の流れは論じられるし、対位法においても旋律間の調和を問題とする以上、音の積み重ねによって生じた和音を無視するわけではないので、これら二つの理論は単に観点の違いであって、全く相反するような性質のものではない。
特に初期の和声法ほど各声部の対位法的な扱いを重要視しているのは、音楽理論としては対位法の方が先にあり、後からできた和声法が対位法の影響を多分に受けているからである。

また対位法とは、狭義にはフックス の理論書を淵源とする厳格対位法(類的対位法)の理論、並びにその実習のことであり、作曲 の理論・実習のひとつである。

[編集 ] 歴史

多声音楽自体の起源は定かではないが、今日まで続く対位法の技法・理論は中世 の教会 音楽に端を発している。9世紀 頃、単声のグレゴリオ聖歌 に対して4度あるいは5度で平行する旋律を付加する、オルガヌム と呼ばれる唱法が出現した。当初、オルガヌムにはリズム 上の独立性はなく、一つの音符 に対しては一つの音符が付加された。“対位法”(counterpoint)という語の語源はラテン語 の“punctus contra punctum”(点対点、つまり音符に対する音符)であり、ここに由来する。

11世紀 には、平行進行のみでなく反進行や斜進行も用いられる自由オルガヌムが用いられたが、リズム的には一音符対一音符のままであった。12世紀 になって、単声を保続音としてその上により細かい音符を付加する、メリスマ 的オルガヌムの技法が現れた。

アルス・アンティクア の時代(12世紀 中頃〜13世紀 末)には、声部の数がそれまでの二声から、三声、四声へと拡大し、オルガヌムもより複雑化した。アルス・ノーヴァ の時代(14世紀 )に至ると、それまでの定型的なリズムに替わって、より多様なリズムも用いられるようになり、またオルガヌムのように既存の音素材に付加するのではなく、音楽全体を新たに作曲する傾向も生まれた。

ルネサンス 期(16世紀 - 17世紀 )になると、各声部の独立性はさらに明確化した。ルネサンス末期に現れたパレストリーナ の様式は対位法の模範とされる。またルネサンス末期には、旋律と旋律の積み重ねによってではなく、和音と和音との連結によって音楽を創る、和声の発想が現れ、以後次第に西洋音楽においてはこの発想が支配的となった。

18世紀 に入ると、教会旋法 による音楽は次第に廃れ、長調短調 による調性的な音楽が主流となり、それに伴い対位法にもますます和声的な発想が入り込むようになった。それまで合唱 、つまり声楽 と共に発展してきた対位法が、この時代に至ると器楽 も発達し、それに伴って器楽的対位法と言われる新たな音楽語法が現れた。この時代に活躍したJ.S.バッハ の作品はそれまでの対位法的音楽の集大成であると同時に、和声的な音楽語法をも用いたものであり、音楽史上一つのターニングポイントであるとみなされる。

古典派 やそれに続くロマン派 の時代では、各声部が独自性を保っているポリフォニー 的な音楽ではなく、一つの旋律に和声的な伴奏 が付随するホモフォニー 的な音楽が支配的となった。このため、対位法は和声法に比べてそれほど重視されておらず、興味の方向は超絶技巧などの名人芸や楽器の改良など音色や速度へと変化した。

現代 では、対位法的発想は以前とは全く異なった形で現れている。例えば十二音技法 では、音列によって音組織が秩序づけられるので、音列を用いた旋律が重ねられたりすればそこには対位法的な発想を認めうる。この場合、音選択が問題であり、結果として生じた音程は偶発的な存在である。


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参考2:
ミハイル・バフチン
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バフチン から転送)
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ミハイル・ミハイロビッチバフチン(Михаил Михайлович Бахти́н , 1895年 11月17日 -1975年 3月7日 )は、ソビエト連邦 (ロシア )の思想家 、文芸理論家 。

オリョール に生まれ、ペテルブルク 大学を卒業。 以後さまざまな教職を続けながら文学研究を続けるが、世界的に知られるようになったのは1970年代からである。 1975年モスクワ で病没。
バフチン・サークルと著者問題

* ヴァレンチン・ヴォロシノフ
* パーヴェル・メドヴェージェフ

[編集 ] 主要概念

[編集 ] 対話主義とポリフォニー

ドストエフスキー詩学」初版において、バフチンは、それまでのドストエフスキー 研究を、登場人物の思想や心情と研究者が対等にたって、実在の人物のように批評・批判するものや、逆に、登場人物の思想や人格を、作者の思想や人格の「表現」として分析したものであって、どちらのやり方も、小説のテキストをそれ自体として捉えたものではないとして批判した。

すなわち、登場人物を実在の人物であるかのように扱い、それと対等の立場で論争・批評してしまうような研究では、作品全体の構造を捉えることはできず、また、その分析の内容も、文学作品としての固有のものではなく、歴史学社会学的なイデオロギー分析にとどまってしまう。

他方で、そうした諸人物や事件を、作者の思想の「表現」として捉える研究では、畢竟、作者のイデオロギーの分析になるか、あるいは、伝記的な研究へと分析は逸らされ、そのような登場人物の、作者とは異なる固有性は捉えられず、また、登場人物の間の関係も、特定の登場人物(あるいは、その思想)を引き立て、あるいはけなすという機能からしか把握されない。

バフチンドストエフスキーの小説の画期性を、その登場人物があたかも独立した人格のように多面性を持ち、解釈の主体として振舞い、時には、独自の思想の主張者として振舞うことで、人物相互の間に「対話」が成立し、そのような対等かつ劇的な対話性において、小説以外のジャンルでは表現困難な、現実の多次元的・多視点的な表現が可能になっていることであるとした。

このような視点は、バフチン自身の、哲学的・言語学的な対話主義の思想に裏打ちされている。バフチンは、真理は、特定の視点によっては表現することはできず、どれほど複雑かつ高度なものであっても、つねに複数の認識の視点と、ひとつの視点との相違は還元不能なままに残ると考えた。この相違を還元不可能なものと見る視点からは、複数の限定的な視点を、より高次の複雑かつ総合的なひとつの視点によって完全に汲みつくし、代替することはできないことになる。

[編集 ] ドストエフスキートルストイ

バフチンは「ドストエフスキー詩学」において、ドストエフスキーレフ・トルストイ の文学の明確な差異を、画期的なポリフォニー 論などによって示した。

ドストエフスキーの文学においては、上記のように客観的に叙述し得る単一的な真理は存在せず、各人の思想が否定されずに尊重される。各登場人物は、作者ドストエフスキーと同じように、1人の人間として思想や信念を固持する権利が与えられている。それはすなわち人格の尊重である。ところがトルストイの小説においては、しばしばトルストイの考えに登場人物が近づくことが、真理への到達と同視される。そしてトルストイと反対の意見を持つ人物は、しばしば自己完成からは程遠い人物として描かれるのである。バフチンはこれをモノローグ な構成として批判した。

[編集 ] カーニバル性、カーニバル文学

カーニバル とは古代より続く、国や地域の違いによって様々な形態をとる祭り のことである。カーニバルにおいては、人々の間に通常存在する社会的、身分的な距離が取り払われ、無遠慮な人々の交わりが見られる。また、カーニバルは、動物が人間の衣装を着たり、貧民が国王に扮して国王の衣装を着たりする、価値倒錯の世界でもある。

古代より、広場 はカーニバル性をもった場所であった。バフチンによれば、特に中世の人々は、規則にがんじがらめの生活と、カーニバル性を持った広場における生活との、二重生活を送っていたという。カーニバル広場においては、不謹慎、神聖なものに対する冒涜や格下げなど、あけっぴろげな生活が見られたという。

文学とカーニバルの関係は古く、古代においてはルキアノスセネカ などの文学に如実に見られる。ルキアノスをその代表者とする、古代のメニッピア(メニッポス流の風刺 )と呼ばれる文学が、カーニバル文学の源流である。メニッピアの文学においては、オリンポスの神々の格下げが見られたり、地獄の顕著なカーニバル化などが見られる。(地獄は地上のあらゆる地位の人たちを対等化することから、典型的なカーニバル空間である)

文学におけるカーニバル性とは、国王の戴冠と奪冠、地位や役割の交代や変装、両義性、シニカルで無遠慮な言葉、などに見られるものである。価値倒錯の世界を創り出す効果を持つ。また、中世によく見られた笑いを隠れ蓑にしたパロディー にも、強いカーニバル性が見られる。中世においても笑いによってならば、聖なるものを俗的に扱うことが許されたのである。聖と俗の交わりや交代、否定(嘲笑)と肯定(歓喜)、死と再生、などが笑いの中で行われた。笑いは社会風刺のために、無くてはならない要素であった。カーニバル文学においても、笑いは極めて重要な要素である。

カーニバル文学の代表例としては、フランソワ・ラブレーセルバンテス の著作がある。特にバフチンは、ドン・キホーテ をカーニバル文学屈指の名作として、高く評価している。そして、ドストエフスキーの文学は、古代より続くカーニバル文学の系譜に忠実であり、同時に進化させたものであるという。いわばドストエフスキーの文学は、現在までのところ、カーニバル文学の最高峰にあるということである。

[編集 ] 影響

* ジュリア・クリステヴァ
* ツヴェタン・トドロフ
* カルチュラル・スタディーズ
* ミラン・クンデラ
* デイヴィッド・ロッジ
* 山口昌男

[編集 ] 邦訳主要著書

* 『フランソワ・ラブレー の作品と中世 ・ルネッサンス の民衆文化』(川端香男里 訳, せりか書房 , 1974年)
* 『マルクス主義言語哲学 』(桑野隆 訳, 未来社 , 1976年 )
* 『ミハイル・バフチン著作集』全8巻(新時代社 , 1979-88年)
* 『ドストエフスキー詩学』(望月哲男 , 鈴木淳一 訳, ちくま学芸文庫 , 1995年)

[編集 ] 外部リンク

* バフチン・センター

執筆の途中です この「ミハイル・バフチン」は、人物に関する書きかけ項目 です。
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