検討問題:「観る」とは、理論的にどういうことか:イデアの何が観る

検討問題:「観る」とは、理論的にどういうことか:イデアの何が観るのか。


テーマ:検討問題


1)「観る」とは、理論的にどういうことか:イデアの何が観るのか。原知+iと原身体-iの共振*において、ヴィジョン=エイドス=イデア=テオーリアが形成される。この原映像において、何が観ているのか。そう、感覚とは何か。今、直感で言うと、差異共振態が原感覚である。+iが原知であり、-iが原身体であり、その両者の共振態に原感覚があるのではないのか。また、そこには、原感情(共感性)があるだろう。
 そう、共振態において、+iの側面が感覚で、-iの側面が感情ではないだろうか。つまり、感覚と感情は表裏一体ということではないのか。また、欲望は、感情よりも、より-i・原身体側に存しているのではないのか。


2)映画を観るとはどういうことか:ヴィジョンの問題:夢と映画


3)今日、芸術が死んでいるのは、Media Point(差異共振性・差異即非性)を閉鎖させているからである。美術にしろ、音楽にしろ、文学にしろ、伝統的な芸術が死んでいる。(宮崎駿のアニメとは、Media Pointが開いているのである。だから、生き生きとしたヴィジョンがあるのである。)。Media Pointとは、「魂」と言える。
 しかし、個体の「魂」とどう関係するのか。つまり、今の私の考えでは、魂は、虚軸(虚界)の超越的双極差異であり、それは、Media Pointとは区別される。そう、魂とMedia Pointとの関係をどう見るのか、である。魂=イデアは、Media Point=開口部に流出するものであろう。そして、芸術は、本来、後者の表現であろう。『国家』におけるプラトンの芸術批判は同一性の模倣としての芸術批判と見ることができるのであり、Media Pointの表現としての真正な芸術を批判しているのではないと考えられる。(すぐれたファンタジーはMedia Pointの表現である。神話もそうである。また、すぐれた小説や詩もそうである。)
 

4)感覚欲望とマーヤーとMedia Pointの関係:この問題は、簡単に言えば、連続性と不連続性の問題である。モダン/ポスト・モダンとトランス・モダンの問題でもある。感覚欲望は、外的対象と志向する。このとき、Media Pointから発したエネルギーは外的対象と連続化される。つまり、自我と連続し、不連続なMedia Pointは見失われる。
 ここから見ると、仏教の偉大さがわかる。仏教は、空という概念によって、連続性を断ち切るのである。色即是空。しかるのち、現象へと戻るのである。空即是色。空はMedia Pointである。しかし、空をゼロとするのは、後退である。それは、構造点に過ぎない。つまり、ポスト・モダン的差異である。
 また、イデア論も仏教と同質である。現象を仮象とすることで、いったん現象から切れるのである。現象からの不連続化である。しかし、イデアを分有する仮象という概念がプラトンにはあるのである。
 問題は、感覚現象が不連続化したとき、感覚欲望はどうなるのかである。直感では、感覚は同一性構造から外れる(脱構築・脱構造化)ので、当然、欲望も脱構築・脱構造化されるのである。私の言葉では、「間(ま)」が生まれるのである。そう、外的対象が他者になるのである。差異化である。
 では、「間」化されたとき、感覚欲望だったものはどうなるのか。つまり、エネルギーはすべてが感覚欲望とはならなくて、差異共振エネルギー化するのだと思う。これが、社会倫理・秩序道徳の源泉である。
 ここで、カント哲学を考えると、カントは、構造的同一性主義であるが、差異を物自体や実践理性にゆだねたと言えよう。そして、カントの超越論性とは構造主義的であり、フッサールの超越論性とは、脱構造主義的である。


5)3に関連して、魂=イデアとMedia Pointの関係についてさらに考えたい:思うに、Media Pointとは、端的に、イデアと物質との境界であり、イデアでもないし、物質でもない。実に不思議な領域である。
 私はイデアはヴィジョンであると言うが、そのヴィジョンは、Media Pointで形成されるだろう。しかし、Media Pointとは別である。ここが微妙である。夢はMedia Pointのヴィジョンであり、魂=イデアそのもののヴィジョンではない。この「差異」が重要である。
 魂=イデアそのもののヴィジョンとは、いわば純粋である。しかるに、Media Pointのヴィジョンとは、屈折しているだろう。何故なら、即非様態にあるからである。思うに、プラトンイデアの表現として円や円運動をあげているが、それは、魂=イデアそのもののヴィジョンだろう。
 では、宇宙の円や円運動や渦巻き運動とは何だろうか。それは、オイラーの定理の現象様態ではないのか。つまり、時間化された様態ではないのか。だから、Media Pointの表現ではないということだろう。
 思うに、不連続的差異論の頃、イデア界と現象界とを重ねて考えていた。イデア差異が現象差異となるのである。おそらく、イデア界と現象界との相関性があるように思える。これについては、新たに考察したい。