市場哲学:市場とは何か:トランス・モダン市場経済:差異共振化され

市場哲学:市場とは何か:トランス・モダン市場経済:差異共振化された市場経済


テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築


差異価値と同一性価値との関係を考察しているトランス・モダン経済論が途中であるが、市場についてどう考えるのかという点がまったく触れられていないので、それを考察する必要がある。
 端的に、市場とは何か、である。例えば、私が古楽のいい演奏のCDを買いたいという立場にあり、お店に行って買うことになるとしよう。
 この買いたいという心的欲動や何であろうか。欲望なのか。確かに、いい音楽への渇望がある。それが満たされないとストレスになる。つまり、心に、差異共振エネルギーを音楽の波動で与えて、心に充電する必要があるということなのだろう。
 とまれ、ここには、買い手における欲求・欲動がある。欲望なのだろうか。欲望というと、あまりに生々しい表現である。音楽を欲望すると言うだろうか。欲求であり、心的欲動である。心欲と造語してもいいだろう。
 思うに、いったい欲とは何か。物質的欲から心的ないしは精神的、美的欲まである。音楽の場合、美的欲求でもある。絵画でもそうであろう。映画もそうだろう(もっとも、流行に遅れまいという、世俗的欲もあるだろう)。
 とまれ、個体の欲を満たすために、市場において、欲を満たす商品・品物・物を購入するのである。このとき、売り手に対価を支払うのである。
 そう、この対価において、差異価値と同一性価値の関係が発生しているのである。買い手にとり、ある商品は差異価値である。売り手にとっては、同一性価値の可能性である。ここで、価値の非対称性が生じている。買い手は、差異価値をもつ商品に購入に対して、対価である貨幣を支払う。それは、売り手によって提示された同一性価値である。つまり、市場において、差異価値と同一性価値(貨幣)との関係が相互転換すると言えるだろう。買い手には、差異価値への心的欲動があり、手元には、同一性価値である貨幣がある。それに対して、売り手は、買い手が欲する差異価値があり、それを同一性価値(貨幣)に交換したいと強く望んでいる。
 言い換えると、質(差異)と量(同一性)との交換が市場経済であると言えよう。つまり、それは、哲学的には、不可能な事態なのである。差異と同一性という異質なもの同士を相互転換させているのである。これは、実に不思議、いわば、手品・魔法・魔術である。マルクスが『資本論』で商品の形而上学を驚異をもって言及していたのを想起する。
 ハリー・ポッター等のファンタジーがブームであるが、実際、市場の哲学とは、ファンタジーそのものである。現実のファンタジーであるから、凄みがあるのである。(p.s. 思うに、今日のバーチャルな経済とは、超越的エネルギーが同一性へと流出しているために発生していると見ることができないだろうか。超越的エネルギーを回帰、フィードバックさせるべきであろう。後で検討。)
 貨幣が同一性価値を保障しているので、市場社会において、人々は、同一性価値である貨幣を目指して生産することになるのである。そして、貨幣の有効性を利用して金融業が発達するのである。同一性価値が同一性価値を増殖するのである。ここには、差異価値という原点から離脱した行為があると言えよう。
 問題は、欲・心的欲動である。差異価値への心的欲動がある。それを手に入れるには、交換価値である貨幣を獲得して、購入する必要があるのである。貨幣獲得のために、賃金仕事に関わることになるのである。それは、個の差異価値を多かれ少なかれ抑圧して、会社・企業の経済活動のために従事することになる。もっとも、天職に従事する場合があるがそれは、希少である。
 生きるため、それは、個の差異価値を肯定するためであるが、働くことになる。差異価値のために、同一性価値である貨幣を獲得するために働くのである。そう、個において、差異価値と同一性価値は結びつくことになるだろう。この結びつきであるが、それは、何か。
 具体的に考えよう。食事のため、お米が必要がある。それは、私の物質的身体を維持するために必要なものである。これは、心的欲求というよりは、物質的欲求である。身体的欲求である。お米を手に入れるためには、その価格に等価の貨幣をもつ必要がある。つまり、私の物質的欲求のために、同一性価値である貨幣が必要なのである。
 では、私の物質的欲求とは何だろうか。それは、同一性価値の欲求なのだろうか。否、そうではないだろう。「私の」という点が重要である。つまり、差異価値なのである。差異価値の欲求を満たすために、同一性価値である貨幣が必要なのである。言い換えると、差異価値の更新のために、同一性価値である貨幣が必要なのである。
 だから、人は、差異価値を維持するために、同一性価値である貨幣を獲得するために働くわけであるが、ここで、差異価値と同一性価値が連結するのがわかるのである。つまり、個としての欲において、差異価値と同一性価値がつながっていると言える。
 では、個としての欲とは何だろうか。ここでは、身体を例として考えると、身体保持・更新の必要性が欲であろう。すると、これは、Media Point(差異共振性)から同一性が形成されるときの力学と同質の問題であることがわかるだろう。
 そう、ここで注意すべきは、同一性の構造形式と同一性という物質との違いである。身体は、Media Pointないしは遺伝子から、その構造形式を保持されるものであるが、物質的身体という同一性=物質自体は、身体の構造形式とは区別されるのである。そして、物質的身体の更新の必要が欲ということだろう。
 そう、作業仮説的に言えば、身体の同一性構造から同一性物質身体が形成されるが、そのときのエネルギーの補充の必要が欲ということだろう。端的に、食欲である。(性欲は次元が少し異なるだろう。)
 結局、身体の差異価値(「わたしの」身体という意味である)は、エネルギーを補充するために、欲を発生させて、充足させるために、同一性価値である貨幣獲得のために働くのである。
 しかしながら、貨幣獲得の目的は、差異価値にあるのであり、同一性価値は、本来、手段・媒介・媒体に過ぎない。
 しかし、自明のように、欲という作用が基盤となり、同一性価値自体に対して、欲が発生すると考えられるのである。本来、差異価値のためのエネルギー補充のために、欲が発生するのであるが、市場経済においては、欲を媒介にして、同一性価値自体への欲が発生すると言えるのである。そして、これは、同一性である自我において、発達すると言えるであろう。これは、当然、所有欲へとつながるのである。我欲である。
 結局、欲を媒介として、同一性価値=貨幣の市場経済が成立すると言える。ということで、ここで倒錯が生まれると言えよう。本来、差異価値を満たすものであった交換が、同一性価値を欲求する方向へと転換するのである。価値の倒錯が発生するのである。これが極端化したのが、たとえば、サブプライムローンである。言い換えると、市場経済は、今日、倒錯経済であると言えるだろう。
 原始市場経済においては、問題はないだろう。差異価値が同一性価値=貨幣を介して、交換されるだけである。資本主義で問題なのは、同一性価値=貨幣が超肥大化していることである。欲の肥大化、自我の肥大化である。(私はここには、前頭葉ではなく、脳の違う局所が作用しているように思えるのである。動物的な脳である。情動脳である。視床下部が作用しているのではないだろうか。)
 とまれ、《欲》が中心点である。これは、哲学的には、連続化・同一性化、すなわち、連続的同一性化と言えるだろう。これは、不連続的差異論が問題にした事象である。
 これは、人間という自然にとっての、一つの自然事象である。アダム・スミスが見えざる手と言ったが、その意識には、自然のヴィジョンがあったのだろう。
 確かに、一つの自然事象であるが、絶対的事象ではない。自然の基盤は、連続的同一性ではなくて、差異共振性、Media Pointであるからである。だから、自然の事象である市場経済であるが、それは、連続的同一性の経済であり、絶対的ではないのである。だから、ここで短絡的に市場経済を否定するということにはならないのは、自明であろう。
 結局、連続的同一性=欲が支配して、市場経済がカオス化されるわけであるが、いったん連続的同一性=欲を切断して、本源の差異共振性=Media Pointに回帰することで、市場は質的に新しいものになると考えられるだろう。即ち、根源の差異価値へ回帰して、差異価値自体を評価する経済が考えられるのである。これは、パラダイム・シフトである。
 《欲》を切断して、差異共振エネルギーへと転換することである。言い換えると、差異共振「欲」のようなものが存することになるだろう。そして、この「欲」を満たす市場経済がありうるのではないだろうか。それは、これまでの市場経済とは質的に異なるだろう。差異共振化された市場経済である。(Kaisetsu氏の「市場化された場における共同体主義」を参照。)そう、モダン/ポスト・モダンにおいては、連続的同一性=欲が支配的であったが、この、いわば、トランス・モダン市場経済においては、差異共振「欲」が作用していて、これまでの同一性欲動を超える、トランス同一性欲動・差異共振欲動が作用しているのである。正確に言えば、同一性欲動を包摂した差異共振欲動が作用しているということである。高次元市場経済とも言える。
 このトランス・モダン・マーケットにおいては、欲動は垂直化ないしは虚軸化しているのであり、そのような欲動に見合う売買がなされることになるのである。では、資本はどうなるのだろうか。これまで主導的であった同一性価値資本ではなくて、差異価値資本、差異共振価値資本が重視されるようになるだろう。だから、これは、差異共振市場経済である。トランス資本主義である。若者であった資本主義が大人である差異共振経済へとトランスフォーム(変換・変容・変態)するのである。情報資本とは、差異価値資本である。また、差異共振共同体を志向する企業も差異共振資本をもっていると言えよう。同一性資本から差異共振資本へ。トランス・キャピタルである。
 そう、政治も差異共振社会へと指導する必要があるのである。それによって、経済が資本主義経済から差異共振経済へと変換するための
触媒になると考えられる。 


参考:
第2章 市場経済のしくみについて
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/zin4-2.htm
橋本裕「経済学入門」より