eliot-akira氏の明敏な思慮・洞察に満ちたコメント:体験と哲学

eliot-akira氏の明敏な思慮・洞察に満ちたコメント:体験と哲学


以下のようにeliot-akira氏から、思慮・理解のある、長文のコメントをいただきました。どうもありがとうございました。
 eliot -akira氏が指摘されていることは、まったくその通りだと思いました。例えば、Aという体験/システムからなる哲学Aがあるとします。それに対して、 Aという体験/システムを超えた異質なBという体験/システムからできた哲学B(仮説)が生まれたとします。
 哲学Bを果たして、哲学Aの視点から、理解・把捉・了解できるでしょうか。例えば、実数のシステムしか知らない人に、虚数のシステムが理解できるでしょうか。哲学で言えば、フッサール哲学とハイデガー哲学がありますが、両者は現象学で括られていますが、私は両者はまったく異質であると考えています。(ですから、現象学という名称を両者に使用するのはミスリーディング、端的に言えば、誤謬だと考えています。)
 即ち、フッサールはあるエポケー(判断停止)による体験Xから哲学(超越論的現象学)を形成していますが、ハイデガーは、その体験Xとは異なる体験Yから哲学Yを作りました【p.s. 上記の例とは、時間的に逆になりますが】。私見では、体験Xには、超越性が含まれていますが、体験Yには、極言すれば、超越性は含まれていません。ですから、ハイデガー哲学を哲学Aとして、フッサール哲学を哲学Bとすれば、哲学Aの認識から哲学Bを洞察することは不可能だと考えています。【もし、哲学Bを理解しようとするなら、哲学Aの前提をいったんエポケーする必要があります。イギリスの詩人キーツの言葉で言えば、「否定的能力」 negative capabilityをもつことであります。これは、とても東洋的な観念で、自分の心を無にすることだと考えられます。有り体に言いますと、謙虚・虚心になることであります。】
 私は以前言いましたが、理論・哲学とは主観現象の秩序・合理・整合的言説化であります。ですから、eliot-akira氏が正に述べられる通りであります。初めに主観体験ありき、その後に、言説理論化が為されます。
 ですから、eliot-akira氏が、PS理論を芸術理論や神話として、受けとるのは、主観現象の先行性を考えれば、適切なことと言えましょう。
 前提となる体験/主観性に理解力はない人は、その前提から生まれた哲学を認識は不可能でしょう。ただ、自分の体験/認識の視点から、他者であるその哲学を裁断してしまうと思います。
 まだまだ、言うべきことがありますが、今はここで留めたいと思います。たいへん明敏な、喚起力のあるコメントをほんとうにありがとうございました。


p.s.  この問題は実に奥が深いと思います。卑近な例を出せば、介護の体験のない人に、介護とはどのような心労やストレス等をもたらすか認識できるでしょうか。哲学的には、端的に、他者の認識の問題であります。他者(差異)を他者(差異)としてどう理解するのか、これは決定的な重要性をもっているでしょう。通常、人は、自己同一性の認識(同一性主義)から、他者を認識してしまい、他者の他者性(差異)を看過・無視します。この他者性へのセンサーをもっていることが、すぐれた人や哲学や理論の指標であり、また、今日、それを形成することが必須であります。


p.p.s. eliot-akira氏はニーチェについて言及されていましたが、『ツァラトゥストラはかく語りき』からわかるように、ニーチェの特異な体験が語られています。私の哲学の実質上の先生は、仏教に似ていると述べていましたが、それはともあれ、ニーチェの体験は端的に、超越的体験だったと思います。プラトン他の古代ギリシアの哲学者の体験に類似したものではないかと思います。それは神秘体験と名付けることが可能でしょうが、それは語弊があるので、私は使用を避けています。
 思うに、ニーチェの超越的体験(神秘体験)とは、端的には、トランス・モダン体験だと思います。ただ、ニーチェの場合、脱構築の破壊性が、超越的体験に含まれる積極性より強く出てしまっているのではないかと考えます。
 以前述べましたが、プラトン哲学とニーチェ哲学は根本的には一致しうると考えています。また、プラトン哲学/イデア論ですが、一般的には、教科書的な凡庸な解釈が流通していると思います。
 プラトン哲学の紙背に徹する必要があります。同一性的発想が見やすいので、人はそれを指摘して、同一性形而上学と判断しますが、それは、皮相な見方だと思います。イデア界は同一性形而上学を包摂したものと私は考えています。超越界と取るのが、明快ではないかと思います。


尚、eliot-akira氏のブログのURLは以下の通りです。
http://ameblo.jp/eliot-akira/


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差出人
eliot-akira

日付
2008/08/01 01:02

件名
こんにちは

最近の bloghiro-dive さんとの論争、興味を持って読んでいます。これは「論争」というよりは、喧嘩を仕掛けられたようなものですね。

renshi さんの多面的な思索にいつも刺激されているものとしては、何とか支持を表したいのですが、残念ながら主流の西洋哲学の教養が足りません。bloghiro -dive さんの土俵で戦うための哲学的な用語や概念を持っていませんし、また彼の言う「言論闘争」にはあまり興味がありません。

そこで昨夜、どうやって renshi さんのPS理論を含む思考活動を捉えたらいいのか、考えました。

renshi さんの立場は歴史上における神秘主義者たちの立場と似ていると思います。何らかの超越体験を基にした考えというのは、西洋哲学の制約というか枠内に押し込めるのは難しいのではないかと。

晩年に精神に異常をきたしたと言われるニーチェがいい例だと思います。情熱にまかせて執筆した著作は、それまでの哲学や論理、思想といったものを超越した独自の体系を生み出しましたが、もちろんそれなりに多くの哲学者や思想家の批評に晒され、徹底的に解体してしまおうとする動きもあったと思います。それでも、ニーチェの思想は現在まで影響を及ぼし、真価を立証し続けています。

アカデミズムの哲学の制限を逸した考えを、アカデミズムの言葉で守り通すのも無理があると思うんです。「ポスト哲学」または「トランス哲学」として、bloghiro-dive さんが代表する退屈な哲学とは違った次元であることを明らかにすればいいかもしれませんね。

renshi さんの論考は想像力が豊かで、多彩な応用または柔軟な解釈が可能であると思います。僕はPS理論は主流の哲学を超えた、芸術的な価値があると見ています。

従来の哲学は想像力に欠けていると感じます。現在繰り広げられている哲学上の論争はすでに飽和状態に至っており、何か新しい霊感、斬新なアイディアを待っている時点だと見えます。しかしながら、神秘体験、霊的体験というものが疎外された今となっては、主流の哲学を超えた「外側」から哲学自体を批評する必要があると感じます。事実、哲学史において尊敬されている人物は全て、何らかの超越的な体験をされた後で、それを説明するために哲学を応用されたのだと思います。つまり体験が最初で、理論体系は二の次である。

(続く)

差出人
eliot-akira

日付
2008/08/01 01:03

件名
こんにちは(続き)

bloghiro-dive さんが展開されている「言論闘争」は暴力的ですし、何も新しい考えが認められません。つまり芸術作品に対する霊感の乏しい批評家の立場ですね。個人的には、作品自体の小宇宙を楽しむほうが、ずっと価値があると思います。

哲学が言語ゲームであるなら、ゲーム自体を解体してしまうということは、たとえばチェスを例にすれば、そのルールは自律性を持つだけで現実には対照しないという、まあ当たり前のことを繰り返すだけのつまらない行為だと思います。

哲学という言語ゲームを楽しむためには、新しいアイディアを導入したり、ルールを作ったり、様々な可能性を取り入れていったほうが面白いと思います。

それが現実か妄想かという問題は、まず「現実」とは何かということに至りますが、結局、現実というのは「お話し」であり、ストーリーであり、その文化、歴史的な時点における神話にしか過ぎないということに落ち着くと思います。新しい神話を築き上げ始めるのか、すでに崩壊した神話の残骸の只中に立って、空虚に向かって暴言を吐くのか、それは個人的なチョイスだと思うんです。

その視点から見ると renshi さんは実に味わいのある神話(PS理論を神話と見なすのは失礼かもしれませんが・・・)を語っており、それを聞いて世界観が開くか、神話自体を拒否するか、まあ聞く人の自由ですね。

僕としては、PS理論を信じる、受け入れるというよりは、その小宇宙または理論体系自体を、巨大な視野を持った芸術作品として楽しんでいます。成長しつつある作品ですね。

ということで、「哲学」という世界から離れた立場から見た、独断に偏った意見かもしれませんが、renshi さんに伝えたいと思い、筆を取りました。

Eliot.