視覚と同一性の問題&境界無と光について

『視覚と同一性の問題』


ラカンは、想像界から象徴界への転化において、契機として、鏡像段階を置いた。これは、鏡像を自我統一像とする構造的意味をもっている。即ち、視覚像に自我同一性の基盤を求めているのである。この問題に関して、不連続的差異論の立場から考察しよう。
 これは、メディア/現象境界の問題である。即ち、差異1・同一性・差異2の構造の問題である。また、感覚像の問題でもある。視覚は、光感受性の問題であり、聴覚は音波感受性の問題である。また、触覚は、肉体感受性の問題である、等々。メディア界において、差異1と差異2とはゼロ度共振して、量子状態になっている。ゼロ度共振は、多重・多層性を帯びるである。この多重・多層化された共振差異が心身である。ここで、差異のもつ志向性=ノエシスノエマは、心身に変換されていると言えるだろう。即ち、ノエシス→思惟、ノエマ→存在(身体・延長)。また、ノエシス→思惟=波動、ノエマ→存在=粒子ではないだろうか。同一性とは、波動のうちの光が特化したものではないだろうか(もちろん、諸感覚があるが、それらは異なる波動であろう)。そして、光による視覚像が、他の諸像を排除して、自我同一性を特化・特権化するのではないだろうか。結局、光の像が、自我同一性の像となると言えよう。ラカン鏡像段階とは、このことを、指していると考えられる。
 問題は、ゼロ度が無となることの意味である。無と光との関係を証明しなくてはならない。
 稿を改めて、検討したい。



『境界無と光について:光の暴力と同一性自我:小泉純一郎の同一性構造主義小沢一郎の差異共立主義』


差異の境界がゼロ度になって、差異が対極的に連結するのがメディア界であり、差異が共振状態にある。量子化である。思うに、このメディア界では、いわば、表裏、前後、上下、左右等が常に反転する領域ではないだろうか。メビウスの帯の領域であろう。差異即非の様相である。ここは、空間があり、同時に無い状態だろうし、時間もそうだろう。(メディア螺旋原時空間があり、そこから、境界無化によって、現象界が発現するのだろう。)
 思うに、ここは、「鏡の国」ではないだろうか。ここには、時間の不可逆性はないのではないだろうか。『鏡の国のアリス』において、白の女王の指から血が出てから、指にピンを刺すように、時間も逆転するのだろう。覆水盆に返るのだろう。ヌース理論でいう対化に相当するのではないだろうか。とまれ、対極性、陰陽の世界である。
 では、ここから、境界無化が発生するときどうなるのかである。また、境界無化とは何か。とにかく、境界無化において、時空間が発生すると考えられるのである。相対性理論の世界である。メディア界は量子・素粒子の世界であるが、それは、光だけの世界ではありえない。多重・多層的な波粒子の世界である。境界ゼロ度から境界無へと変動するとき、何が起こるのか。差異の同一性化とは何なのか。これは、暴力である。差異は永遠に差異であり、それを同一性化するとは、暴力、欺瞞、虚偽である。しかし、ゼロ化からさらに展開して無化が発生すると考えられるのである。これは、暴力であるから、何かが反動で発生するはずである。これが光ではないだろうか。E=mc^2 今は作業仮説として、差異の同一性化によって、光が発生するとしよう。そして、同一性化・光の発生が、延長空間と非可逆的な時間を形成するのだろう。そう、同一性化・光発生・現象自我の発生があるだろう。同一性自我の発生である。視覚が主導的になり、時空間を構成するのである。現象自我は、いわば、視覚=光に盲目にされているのである。これは、アイロニカルではあるが、真実である。光によって「無明」となるのである。本当の明とは、差異の感覚・認識である。光による盲目の現象自我。そして、これの徹底が、西欧近代合理主義である。差異、メディア界、イデア界を完全に排除・喪失しているのである。
 とりあえず、本件の検討をここで終わりにしよう。

p.s. 暴力によって、光が生まれると言ったが、ならば、当然、暴力によって同一性自我が生まれると言える。私は、以前、自我を反動自我と呼んでいたことがあったが、今の考察から、同一性自我は反動自我と呼べるのである。反動暴力自我、反動暴力同一性自我である。思うに、この究極的なヴィジョンが、黙示録的終末論ではないだろうか。ユダヤキリスト教的西洋文明の中心的ヴィジョンではないだろうか。ニーチェがえぐったように、ルサンチマンである。そして、換言すると、光の暴力である。(確か、デリダにこんなタイトルの章があったように思うが。)光の対象を欲望し、同一化し、横取りし、そして、破壊するのである。D. H. ロレンスが、『黙示録論』で述べていたが、優れたものを破壊したいという劣者の暴力欲望。これは、優れたもの=差異を同一性化したいという同一性自我の暴力欲望と言えよう。差異を否定して、同一性の支配を拡大する欲望、全体主義欲望、これは、ヤハウェ欲望と換言していいだろう。
 この黙示録的暴力が今日、世界に蔓延していると言えるだろう。日本の国民は、昨年衆院選挙でそれを露呈させた。今日、日本のファシズム全体主義志向は、同一性自我暴力によると言えよう。これは、戦前、戦中、戦後、現代も変わらない。もっとも、今、小沢一郎氏という差異が政治に発動して、同一性自我暴力に支配された政治を変革しようとしている。差異のエポック。不連続的差異論のエポック。